ルカ 6:42 自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。
お釈迦さんの逸話話で次のようなものがあります。あるとき弟子に聞かれました。「世の中の道は木や石ころがあって歩くのにとても危険である。どうすればよいか」。すると弟子が答えます。「人間の歩く道をすべて鹿の皮で覆うとよいと思います」。するとお釈迦さんは諭されます。「世の中の道に全部鹿の皮で覆うのは不可能である。人間の足を鹿の皮で覆ったほうがよい」と。私たちは、どこを見るかでちがうものだと思います。
本日の聖書箇所は、イエス様の有名なたとえ話しです。ルカによる福音書では平地の説教と呼ばれています。そのなかにこの言葉がでてきます。解説は不要だと思いますが、改めてイエス様に指摘されると、確かに相手の小さな罪ばかりをあげつらっている自分に気がつかされます。見方を変えることで、真の悔い改めへと導かれるものだと思います。
私たちの教会から、偉大な信仰者である兄弟・谷口恭教先生が天に召されて3回忌になります。先生の葬儀を思いだしながら、先生が人生を通して遺された信仰に触れています。九州学院の教諭として生徒たちと真摯に向かい合い、神様の愛を通して導いてこられた生涯を思います。悪いことをした生徒を、親の前で涙を流しながら殴られたという話をはじめ逸話がいっぱいです。しかしその中で先生はいつも自分の「醜さ」を見ておられました。神様の前に立って自分はどうなのかと。すべては神様の愛の中でいきてこられたのです。生徒を殴られた数だけ、その腕を杖で同じ数だけ殴られたと言うこともあります。「先生の中には愛があった」とは教え子の皆さんのことばです。
イエス様は自分の罪を見ないで、人の罪ばかり見ることに対して諭しておられます。自分を振り返ると、言われているようなことを多くしています。私たちは相手の罪をあげつらうのではなく、自分の罪を見つけ出し、悔い改めることが大切です。
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