マルコ 1:3 「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」
種田山頭火の句に「まっすぐな道でさみしい」というのがあります。人生のほとんどを放浪し、句を作り続けた山頭火が「道」について何を思っていたのでしょうか。「まっすぐな道で」という時、自分の人生を振り返ったのだと思います。「さみしい」という言葉に、なぜか胸をうたれます。本当は自分もまっすぐな人生が歩みたかったのでしょう。それができなかった。しかし後悔はあっても、前にある道は「まっすぐ」だというのです。その「まっすぐ」の先にある永遠を見据えていたのかもしれません。
マルコによる福音書も、イエス様の宣教活動に先だって洗礼者ヨハネの活動を紹介しています。洗礼者ヨハネの登場は預言者イザヤによって告げられていたのです。活動の中心は「悔い改め」を宣べ伝え、キリストの到来を準備することにありました。そのために「道を整え、道筋をまっすぐに」というイザヤ書の預言がのべられています。イエス様の前に来た、洗礼者ヨハネの役割は神様への道をまっすぐに整えることでした。この道は永遠の道であり、正義の道でもあります。まがったりそれたりしない。それだけに厳しい道でもあります。その厳しさに耐えるのが悔改めです。
私には思いでの道が4つあります。1、阿蘇の田舎道。この道は幼いころの記憶の中にあり、阿蘇山へ続くまっすぐな道です。子供心にその雄大さを思い出します。2、始めて中国の大地に立った時の道。この道は香港から広東省に入ったときにまっすぐに伸びていた道です。この道の上に立った時、ここはイスラエルにつながっている。ここを歩いていけばイスラエルに行けるのだと感動しました。3、カファルナウムの道。ここにはローマ帝国がおいたマイルストーンが現在もあり、すべての道はローマにと実感したまっすぐな道でした。そして4、聖墳墓教会の入り口へ向かうまっすぐな道。聖墳墓教会の入り口には2本の石の柱があります。そこには無数の十字架がほられています。巡礼者が彫ったものだと言われています。人々は世界中からこの入り口を目指して歩いてきたのです。途中で強盗の危険にさらされながら、天候に脅かされまがら。それでも人は、主イエスの墓を目指して巡礼の旅のしたのでした。私はその道の上に立ったとき、救いの道を実感させられたのです。私たちの救いは、十字架と復活なのだと。
イザヤ書は、洗礼者ヨハネの出現を「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」という言葉で言い表しました。自分たちの人生を悔い改めて、神様にまっすぐに向かうように導けというのです。神様にむかってまっすぐに進む道を示せと言われています。洗礼者ヨハネは悔い改めをせまり、その先にイエス・キリストを指し示します。まっすぐの道のむこうにはイエス様がおられるのです。
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