マタイ 11:28 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
クリスマス明けの日曜日は、牧師にとって「安堵」という文字が浮かびます。多かったクリスマスプログラムが無事に終わったと同時に、今年1年も神様の守りのうちに過ごせたという感謝があります。そしてなにより、この教会で共に礼拝を続けることができたという感謝が浮かぶのです。牧師ですから礼拝を休まないのは「あたりまえのこと」と考えていました。しかし、それは違うのです。病気などで休まざるを得ない状況が生まれます。教会内の人間関係がいやで足が遠のくこともあります。休むための理由はたくさんあります。雨の日にふと「今日は雨だから・・・」と思ってしまう時もありました。しかし、休まずに礼拝に参加することができました。こんなことを思ったのは初めてのことです。
今朝の聖書は、イエス様の有名なみ言葉です。文脈からすると「疲れた者、重荷を負う者」とは、ファリサイ派の要求する律法厳守の宗教に疲れ果てた民衆のことを指しているといえます。また、「休む」ということは、休息することではなく、イエス様のもとに行って従うことを意味しています。私たちは神様に従う生き方をしている時が、一番の平安を受けているということでしょう。休むというとき、ただなにもせずダラダラとしているイメージです。しかし、本来はゆっくり自分を見つめなおし、神様の前に立つ時間です。イエス様のもとに行くと言うことでもあります。そこで語られるみ言葉が我々を休ませてくださるのです。
牧師になって1年目のことでした。なにをやってよいかわからずに、ただひたすらに体を酷使して働いていた時のことです。一人のおばあちゃんから手紙が届きました。そこには次のように書かれてありました。「牧師様。若いからといって自分の体を壊すような働きを神様は喜んでくださいますか?それは神様のみ心ではないとおもいますよ」と。その手紙を受け取った時、穴があったら入りたいと思いました。自分がよいと思ってやっていることが、信徒の方には心配の種を届けていたのだと。それからはゆっくり考え、まずは「休む」という時間をまず設定するようにしました。そうすると、仕事がたまるかとおもっていましたが、逆にスムースにいくようになったのです。時間というものはとても不思議なものだと考えさせられました。
イエス様は「休ませてあげよう」と言われました。私のもとに倒れなさいということではありません。イエス様のもとに行って使命を与えられ、また立ちあがりなさいということです。休むことは神様のみ心に従うことです。それを知らないでいると、本来の働きもできなくなります。イエス様のもとで自分を振り返る時間をもつことが「休む」ことの大きな意味です。
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