創世記 12:4 アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。アブラムは、ハランを出発したとき七十五歳であった。アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。
ナスティン・ホジャの話というのがあります。「ある日、ナスティン・ホジャが友達に大きな鍋をかりに行きました。数週間後、ホジャは鍋を友達に返しにいきました。しかし、その大きな鍋の中には小さな鍋が入ってました。友達は「私が貸したのは大きな鍋一つだけです。小さなものは私のではありません」と言いました。しかしホジャは「いいえこの小さな鍋もあなたのものです。大きな鍋を借りている間に鍋が子供を生んだのです」と答えました。友達は大喜びで2つの鍋を受け取りました。数日後またナジャは同じように大きな鍋を借りにいきました。友達は大喜びで鍋を貸してくれました。また子供が生まれるかもと期待していたのです。ところがナジャは何週間たっても鍋を返してくれません。とうとう数ヶ月が過ぎました。しびれをきらした友達はナジャのところへ怒鳴り込んでいきました。するとナジャは「あの大きな鍋は寿命がつきて死んでしまいました。だからもうこの世にはありません」と答えました。友達は「鍋が死ぬわけがないだろう」と怒鳴りました。しかしナジャは静かに言いました。「あなたは鍋に子供が生まれたことを信じているのに、どうして鍋が死ぬことを信じないのか。生のことのみをしんじて死のことを信じないのはおかしい」と答えました。信じるって何でしょうか。
パウロはローマの信徒への手紙の中で、「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた」と書いています。「アブラハムの信仰が義と認められた」と繰り返されるように、大切なのは「信仰」であり、それを神様が「義」と認めてくださるということです。
大学の先輩に、「信行」という名前の方がおられました。お父様が牧師だったとのことで、「信じて行く」というところが名前の由来だろうと思っていました。ところが名前の由来はそれだけでなく、12月4日に生まれたからなのだそうです。つまり初めての子どもだったので、生まれた月日を創世記にあわせて名付けると決めておられたのだそうです。それでも、神様の導きはすごいと思いました。創世記の中心にピタリとあうようにされたのですから。
パウロはローマの信徒への手紙の中で、「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた」と書いています。「アブラハムの信仰が義と認められた」と繰り返されるように、大切なのは「信仰」であり、それを神様が「義」と認めてくださるということです。神様はアブラムに突然「示す土地へ行け」と言われました。アブラムは「主の言葉に従って旅立った」のです。この単純な出来事が、実は私たちにとって最大の出来事でもあるのです。神様の言葉を信じて歩むとき、大いなる祝福を得ると約束されているのです。私たちはいつも「信行」でありたいと願います。
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