1ペトロ 4:11 語る者は、神の言葉を語るにふさわしく語りなさい。
東日本大震災が起こり、現地教会の牧師は何を語ったかという特集記事を読みました。教会の季節は受難節であり、すぐに復活祭を迎えました。「何を語るか」を根底から問われたと言います。ある牧師は震災後すぐの礼拝では「安息日」について「まず休みましょう」と語ったといいます。また「被災地をもとの姿にもどしましょう」という呼びかけに対して、「もとどおりって何か、もとにもどってはいけない」と語ったそうです。三陸海岸地方は人口も減りさみしい町になっていたからだそうです。もとにではなく、希望に満ちた街を新しく創造しようという対話を教会員の方々としているといいます。しかし「もとにもどそう」という心のなかにある深い思いを牧師が聞いているかを問われているというのです。
ペトロは手紙の最後に、神様の御心に従うために教会はどうあるべきかを教えています。まずは祈りが大切であるといいます。外からの迫害に屈しない心の平静さを保つべきだというのです。また、教会の信徒に与えられている賜物を生かすことを求めています。その中で、神様のみ言葉を語る者は「ふさわしく語りなさい」と教えています。この「ふさわしく」ということは一体何かを考えさせられます。
被災地の教会として毎週の教会で何を語るかを考えます。何を語るにしてもイエス様のみ言葉以外のことは語りません。イエスの言葉はいまこの被災地で何が語られ、聞かれているのか。どうしても出来事からしか語れません。イエス様のみ言葉を出来事に合わせようとしています。しかしそうではなく、イエス様のみ言葉そのものを語ることによって、福音を明らかにしたいのです。現場の苦悩に身を置く。それは十字架そのものです。人間の言葉はいらない。むしろ十字架の見えないみ言葉に寄り添うだけでいいのかもしれません。
ペトロは「語る者は、神の言葉を語るにふさわしく語りなさい」と教えています。神様の言葉をふさわしく語るということは、神様の御心を知って語るということです。牧師はいつの時でも、どんな場所でも説教者として立たされています。その賜物が生かされ、福音が宣べ伝えられるように願います。ふさわしく語ることの意味をもう一度考えさせられています。
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