マタイ 26:14-15 十二人の一人で、イスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところへ行き、「あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか」と言った。そこで、彼らは銀貨三十枚を支払うことにした。
物質としての人間の値段はいくらかということを調べた人がいます。結果は約5000円です。この値段を安いとみるかどうか。なぜ人間の値段が約5000円かというと、脂肪から石鹸7個分がとれます。炭素から鉛筆の芯が9000本分。鉄分から2寸釘1本分。リンからマッチ2200個分となるからです。以上の合計が5000円ということです。これを聞いただけでも、人間は値段にはかえられないことがわかります。人間の価値は金額ではありません。命の値段は金額ではないことは皆がはっきり知っていることです。
イエス様の逮捕を、大祭司たちは祭りの間は止めておこうとします。過越しの祭りは、ユダヤ人にとって大切なものであり混乱を避けようとしたのです。そこへ、イスカリオテのユダがやってきました。大祭司たちにとって、ユダの裏切りは好都合で混乱の責任も押し付けられると考えました。ユダは「幾らくれますか」とお金を請求しています。マタイ福音書にとってこれは旧約聖書の預言の成就(ゼカリヤ11:12)を意味しました。
ある神父さんが書かれた本の中に次ぎのような話をみつけました。ある一人のおばあちゃんが神父さんに質問しました。「神父さん、私はなぜここにいるのですか」と。みなさんはどんな答えをされますか。いろいろと話をきいて、その神父さんは次のように答えました。「おばあちゃん。あなたは長い人生でさまざまな苦労や試練を乗り越えて、ここまで頑張ってこられたでしょう。それは、ご家族や私などには大きな励みになりますよ」と。この話をよんで、さわやかな気分になりました。人はなぜと考える。自分では自分の価値を見いだせないときもある。そのなぜの答えは自分の中にあるのでなく、人を通して、神様を通して答えは与えられるものだと思うのです。
イスカリオテのユダは「幾らくれますか」と言います。イエス様の十字架の死の値段は銀貨30枚でした。この値段の意味をどう考えればいいのでしょうか。私たちの命でさえ金額では計れません。私たちは神様から大切にされている存在です。たとえ銀貨30枚で売られたイエス様の命でも、その命は十字架という使命のために捧げられたものです。この十字架があるからからこそ新しい命が与えられました。復活の命は永遠の命として、神様から与えられる最大最高の命です。
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