1コリント 3:9 わたしたちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです。
東日本震災救援をしていたとき、ボランティアセンターの受付をしました。たくさんの方々が受付に来ますが、対応に苦慮したのは宗教関係のひとたちでした。とくにキリスト教関係の人たちは自分勝手な思いを押し付ける団体がありました。自分が牧師という立場だったからそう思ったおかもしれません。ただ、受付に来る団体は私がキリスト教の牧師と知らないのです。自分たちは神様の業をしている。聖書には奉仕がどんなものであるか書いてある。あなたに教えてあげましょうという態度でした。あたかも神様の代弁者のようでした。これにはとてもついていけませんでした。
パウロは教会を、神様が奉仕者たちを用いて「耕作する畑」「建てる建物」といいます。ここに神様の同労者であるという表現が用いられています。これは神様と共に働く者という意味ではなく、神様のために、神様に用いられて、私たちが共に働く者という意味です。神様と同じことをしているという意味ではありません。その辺を誤解すると、裁きへとつながっていきます。自分たちは神様と働いているのだという思いで、相手をつい除外してしまうことにもなりかねません。
熊本地震支援活動で宗教団体の姿がみえなくなったとお聞きしました。たぶん支援活動の区切りが半年を見据えて終わってきたのでしょう。緊急支援から始まり、避難所支援、がれきの撤去などの活動が落ち着いてきたのかもしれません。ただある人が次のように言われました。「残念ですよね。宗教の出番はこれからなのに、帰っていくのですよね」と。確かにそうだなと思います。宗教のもつ心の寄り添い、傾聴はこれからです。そこには目が向かずに活動を終了したり、違う活動へと流れたり。きっと見ているところが違うのかもしれません。私たちは力を合わせて働きます。しかし、私たちの賜物を忘れてはいけません。そこに神様から与えられた使命と言う者があります。いま被災地に留まり、踏ん張る寄り添いが求められているように思いますが。
パウロは「わたしたちは神のために力を合わせて働く」と教えています。力を合わせて行くということは、自分一人ではできません。お互いが合わせていかねばならないのです。しかしその目的は一つです。「神のために」。この目的がはっきりしてから、「合わせる」ということの意味もはっきりするのです。
<音声礼拝説教は「神様の色鉛筆」でどうぞ!>
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