ユダ 1:2 憐れみと平和と愛が、あなたがたにますます豊かに与えられるように。
フランスの言葉に「愛はいつも、いっそう深まっていくか、だんだん冷えていくかのどちらかである」というのがあります。この愛は、恋愛のことか、結婚生活のことか。または、家族、友達のことをいっているのか。どちらにせよ「愛」を深める努力をしなければいけないことを教えているのでしょう。さもないと「だんだん冷えていく」のです。ただこの「愛」とは何かは一番難しいテーマです。
ユダの手紙の挨拶の言葉です。手紙を書くときはまず「挨拶」を書きます。使徒たちの手紙でも同じです。しかしその挨拶は季節のものではなく、自分は何者で、キリストとの関係はどうであるかを示し、さらに祝福を与えています。この祝福の中で「愛」がでてくるのはユダの手紙のみです。キリストの守られている人々に「憐れみと平和と愛」が「ますます豊かに与えられるように」というのです。この「愛」とは神様の愛アガペーのことです。
私たちは愛を深めることをしているでしょうか。どうすれば深まっていくでしょうか。十字架の上に最愛の息子を見た母マリアは、いったいどんな思いでそこにいたのでしょうか。ニュースでは毎日のように子どもが殺されたという事件が報道されます。誰が、いったい、何のために幼い子どもの命を奪う必要があるのでしょうか。大阪の池田小学校事件で子どもの命を奪われたお母さんがインタビューに答えておられました。「彼の死刑が執行されたとき、これで解放されると思いました。でも2度目の喪失感しかないのです。娘がいなくなった時の喪失感と、また違う喪失感と」。いったいどういう事でしょうか。そのお母さんは続けて「彼が少しでも人間の心を取り戻して、少しでも彼の中に謝罪の気持ちでも生まれてくればと望んでいました。でもそれさえも取られてしまったようで・・・」と言われました。愛するものを亡くした悲しみと喪失感はどれほどだろうと思います。母マリアは、いったいどんな人生を生きておられたのでしょうか。ただひとつ救いだったのは、イエス様の死はすべての人の救いのためだったということです。その死には神様の深い御心と意味があったということです。そこに愛をみます。
ユダは「憐れみと平和と愛が、あなたがたにますます豊かに与えられるように」と挨拶をしています。「憐れみと平和と愛」。この3つが意味しているものは、イエス様そのものです。愛が最後にきているのは、すべては神様の愛によって支えられるということです。
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