ヨハネ 20:29 わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。
九州学院の聖書の授業では、「幽霊」の話をしたいと思っています。幽霊を見たことはないけど、なぜ幽霊が怖いのかというものです。これは幽霊の存在を信じているのではなく、恐怖心から危険を回避するがために幽霊が怖いのだそうです。そう考えてみると、その存在を信じているのでないのです。初めから怖いと思って、その存在を作り上げているのです。だとすると信じるということではないのです。
イエス様は復活したのち、弟子たちに姿を見せられました。はじめての時、なぜかトマスは一緒にいませんでした。他の弟子たちが「私たちは主を見た」といっても、彼はそれを信じることができなかったのです。イエス様は、そのトマスに十字架の傷をみせ、触ってみなさいと言われました。自分の手で触って確かめなさいと。ところが、トマスはイエス様の手に触れることなく「わたしの主、わたしの神」と信仰の告白をしました。そのときのイエス様の言葉は「見ないのに信じる人は幸いである」でした。
最近「つながっている」ということが気になっています。ある時の礼拝で、中村中(なかむらあたる)さんの「友達の詩」を用いました。彼が16歳のときにつくった曲です。彼の人生にはいろいろな背景があります。体は男の子だけど、心は女の子である彼が届かない思い(彼に)をつづった曲です。「手を繋ぐくらいでいい 並んで歩くくらいでいい それすら危ういから 大切な人は友達くらいでいい」ただ切ないという曲には聞けませんでした。心の底にずしんとくるものを感じてしまいました。「手を繋ぐくらいでいい」という思い。神様の国に生きている人たちとつながっていたい、つながりたい。そんなことはできないと思いつつも、しかしその人達を感じていたいという願いに聞こえたのです。イエス様は「つながっていなさい」と言われました。神様とつながっていることで、安心や平安、さらに多くの恵みをいただきます。イエス様とのつながりの確認のようです。「私を信じるものは、たとえ死んでもまた生きる」「生きていて信じるものは死なない」と教えられました。つまり、神様からの命によってつながっているということは信じる事なのです。
私たちは神様の存在を確かめようとします。現実に起こる出来事の中で不安になるとき、神様の存在を探します。しかし確信が得られずに苦しむことが多いものです。そのときは、自分ばかりでなく、ちょっと目をあげてみることです。この世界は神様の出来事であふれています。確信とはそんな出来事にふれ、そこから神様の存在を確かめていくことではないかと思います。
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