ルカ 17:5~6 使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。
使徒たちはイエス様に「わたしどもの信仰を増してください」と求めています。どうしてこのようなことを求めたのでしょうか。多分本人たちにはわかっていなかったのでしょう。ところが、イエス様は何が彼らの本当の求めであるかを知っておられたのです。どうして使徒たちは「信仰を増してください」と求めたのでしょうか。その理由は「赦し」にあります。使徒たちはイエス様が言われるように人を赦すことができないのです。そしてその理由を「信仰が少ないからだ」と考えたのでした。そのような使徒たちの本当の求めに対して、イエス様は言われました。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことをきく」と。つまり、信仰のせいにしてはいけないよと言われたのです。信仰が真の信仰であるかどうかが問題なのです。私たちは「できないこと」を信仰の問題にしてしまいます。しかし実際の問題はそこにはありません。与えられた信仰に気づいていない私たち自身にあるといえます。その与えられた信仰の証しとなるものが「奉仕」だと、イエス様は言われるのです。
大江教会の宣教実践報告を依頼されました。「開かれた教会」「成長する教会」とよく聞きますが、具体的には「如何に」ということを報告してほしいとのことでした。ところが、反応はよくありません。宣教の拡大を目指すテーマでの話でした。。また牧師と信徒との協働による教会成長がテーマです。しかし「教会は数ではない。質なのだ」。「信徒数が少なくても、会計が小さくても大切なことは教会がそこにあるということ」。「教会は礼拝をきちんと守ることが重要で、宣教して大きくすることが問題なのではない」「教会はイベント屋ではない」「信徒は教会に安らぎを求めてくるのであって、宣教して働いて疲れさすのはかわいそうだ」との意見でした。(もっぱら直接言われず、人を通して聞こえてきた不満なのですが)本当にそれでいいのでしょうか。教会の宣教が縮小するのを神さまは喜んでくれるでしょうか。最初の宣教師であるビクナー先生が最後の旅に来られたとき「最初の宣教に関わった牧師として、いま日本の教会の存在は私にとって喜びと誇りです。幼稚園、保育所、教会、すべて生きている。そして成長していました。こんなに神様に感謝したことはありません。これでまっすぐシカゴへ帰ります」といわれました。もし大江教会にミラー先生がこられたら何といわれるでしょうか。
私たちは何をイエス様に求めているのでしょうか。そして教会に。自分が満足することでしょうか。それともイエス様のものでしょうか。それに気が付かないで生きているのかもしれません。神様の前に心を悔改め、謙虚になって総会を待ちたいと思います。