マタイ 8:17 彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った。
難病の友達をもつ牧師からメールをいただきました。そこには「私の親しい同じ歳の友人がALSという難病に昨夏より罹ってしまいました。彼は、えん罪によって自分が死刑囚になった思いがすると言っていました」と書いてありました。「えん罪による死刑囚」という言葉に、とても辛く心が痛くなりました。どうすればこの方の心に寄り添えることができるでしょうか。なにもできないことに気がつきます。しかし、そこに病を共に担うイエス様はおられます。
イエス様はペトロの家へ行き、熱を出して寝込んでいるしゅうとめを癒されました。その後、病を患っている多くの人々を癒されました。また、悪霊に取りつかれた人々には、み言葉によって悪霊を追い出されました。福音書記者マタイはその様子をみて、イザヤ書にある預言の成就みました。それが「彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った」です。イエス様はそこに寄り添っておられるだけでなく、その人の患いを負い、病を担っておられます。だからこそ私たちは痛み苦しみ神様に委ねることができます。そこから新しい生き方がはじまります。
東日本大震災救援の一つとして「石巻河北・北上卒業アルバム復興プロジェクト」を行いましす。アルバムを受け取られた方から葉書が届きました。「我が家も津波により、家屋が流失し何も見つかりませんでした。アルバム1冊がとてもありがたく、財産になります。当人は現在、山形県の大学に在学中です。帰郷の折、アルバムを見るのを楽しみにしているようです。ありがとうございました」(仮説団地より)とありました。またある人は「この津波で子供たちの学校での思い出も流れたと思っていました。大切に保存したいと思います」と書かれてありました。被災者の方々とよりそうことで見えてくるものはたくさんあります。大切なものは何か教えていただけました。その痛み苦しみをイエス様が担っておられるのもわかります。だからこそこのアルバムの復興が私たちに与えられた働きだと思っています。 もう4年前のことですが、いま熊本地震の支援活動の中でも大切なものに寄り添っていきたいと思います。
イエス様は、わたしたちの患いを負い、病を担ってくださいます。それは十字架の主だからです。イエス様のみが、病の中で共に歩んでくださる唯一の神様です。私たちはその存在があることを感謝したいと思います。