2コリ 11:1 わたしの少しばかりの愚かさを我慢してくれたらよいが。いや、あなたがたは我慢してくれています。
昨日漫画を読んでいたら、次のような言葉を見つけました。父が子供に「幸せになるにはどうしたらよいですか」と聞きます。すると父は「空を飛ぶものは落ちるもの。でも絶対落ちない方法は、飛ばないこと。勝とうと思うから負ける。ですから幸せを求めるから不幸になるんです」と教えます。すると子供は「そうか不幸になりたくなければ幸せを求めなければいいんだ」と納得すると言う漫画です。言われてみればそうかなと思います。愚かと言えばそうかなとも思いますが、確かに幸せを求めなければ不幸にはならないものだと思います。禅問答のような会話はとても面白いものです。
パウロは11章で「愚か者の語り」として具体的な問題をあげています。その中には「あの大使徒」と密接な関係をもち、パウロを偽使徒と呼ぶ論的と言われる人々のことも語っています。パウロは神様からいただいた福音においては大使徒にくらべて何も見劣りしないこと。また神様によって愚かにさせられていること。それに耐えながらも、その務めを果たしているというのです。神様からいただく愚かさという表現は、不思議な響きがします。
宗教用語に「愚直」という言葉があります。私はこの言葉の意味を「良寛さん」から学びました。良寛さんを現わす句で有名なものは「うらおみせ おもてをみせて ちるもみじ」(良寛さんの句ではないと言われている)です。裏表がなく素直で実直な良寛さんにピッタリだと思います。また、子どもたちと「かくれんぼ」をしていた話などは有名です。夕方になって子どもたちが家に帰ってしまっても気がつかず、じっと夜中まで隠れていたという逸話です。良寛さんはそのことを怒りもしなかったというのです。人からみれば「愚か」なことですが、そこまでできるという心の広さはすごいなと思います。
パウロは大切な部分の議論を「愚かさ」という手段をもちいて語っています。また別のところでは、神様から「愚か者になる」ことを強制されたと言っています。また愚かになること以外、真実を明らかにして伝える方法はないというのです。神様の前での「愚かさ」とは一体何でしょうか。それは神様がすべてをされることを知ることだと思います。
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