マタイ 10:7 行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい
使命・ミッションが何かを知ることの大切さを説明した言葉があります。それは「船長のミッションが船を守ることであるならば、船長は船を港からださないであろう」です。自分たちが与えられた使命が何であるか、それは間違ってないかを点検しなければなりません。教会も維持することのみがミッションとするならば、外に向かっての宣教を考える必要はなくなります。各個教会が何をミッションにしているか。また、そのミッションを共有出来ているかを考えてみなければなりません。
イエス様は弟子たちを宣教へと派遣するにあたり、御自分と同じ権能を与えておられます。宣教する弟子たちの働きは、イエス様の活動と同じ内容でした。弟子たちが出て行って伝える教えも、イエス様と同じ「天の国は近づいた」と、み言葉を宣べ伝える使命が与えられたのです。
「サッカー好きの少年が広場に集まって練習してもプロにはなれない」という言葉を読みました。そんなことはないと反発したくなりました。「好き」ということがまず大切で、「楽しく」やることで成長すると思ったからです。その本を続けて読んでいくと、「なるほどそうだ」と考えを変えました。「プロになる」。これが目標になったら、「好き」「楽しい」だけではいけません。指導者に基本を学ばねば将来プロにはなれない。遊びに終わるだけでいいなら十分です。プロになるという目標があるのなら基本から学び、やるべきことはわかっているというのです。教会の宣教はどうでしょうか。なにを使命としているのでしょうか。これがいまの私の問です。事務局時代にいろんなルーテル教会の礼拝に参加することができました。「どこも同じ」という印象です。礼拝形式から内容、会員構成、財政問題、次世代へのアプローチ問題、出席人数など。同じ問題を抱える原因はどこにあるのでしょうか。「使命」が何かを、教会全体で共有してないことかなと漠然と思っています。れから考えていかねばなりません。ただ、基本は「宣教する」という、イエス様からいただいた使命です。この基本にまず帰ってみることの重要性を感じています。
イエス様は「行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい」と言われました。外に向けて出かけていき、み言葉を語り、奉仕する使命・ミッションを与えられました。しかも具体的な指示をされています。ミッションがはっきりしているので、弟子たちはみ言葉を信じ、安心して出かけていったのでしょう。私たちに与えられている神様のミッションがわかっているか。そのミッションに従っているかを考えて今日一日を生きてみましょう。
<音声礼拝説教は「神様の色鉛筆」でどうぞ!>
最近のコメント