ルカ 10:40 マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」
「私は○○だから・・・」という言葉を聞くことがあります。この「・・・」には何がはいるのかなと思います。きっと「私は○○だから、でも・・・」と言いたいのでしょう。わかってもらいたいのは「…」の部分です。しかしその大切な部分が聞いてもらえないもどかしさを感じます。「でも…」の部分を聞くためには、じっくり向かい合わなければならないからです。
ルカ福音書の中でも「マルタとマリア」姉妹の話は有名です。イエス様の接待に忙しい姉マルタとその足元で話を聞いているだけの妹マリア。ついに姉マルタはイエス様に訴えるのです。「わたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか」と。妹マリヤのことを訴えているようですが、責任はイエス様にもあると言いたいのでしょうか。なぜ彼女からイエス様に対して、このような心にもない言葉がでてきたか。それは「せわしく」(聖書には忙しいという言葉はありません)立ち働いて、何かを見失っていたからでした。自分がしていることが神様から喜ばれると自分勝手に考えていたのでしょう。すべては「せわしく」心を乱していたのです。
宣教室で働いていたとき、全国の教会訪問をしていました。すると必ず聞こえてくる言葉があります。それは「牧師先生は忙しいから」という言葉です。教会でこの「忙しい」が聞こえない所はないようです。ところで「うちの先生は忙しいから・・・」の「・・・」に何が入るのか。牧師は一度ゆっくり考える必要があります。忙しいという字は「心が亡ぶ」と書きます。そこに心がないということです。教会の中からこの「忙しい」という言葉がなくなる日はくるのでしょうか。たとえ忙しくみえても、心がそこにあれば教会や牧師がそこでしなければならないことが見えてくると思います。「・・・」が大事なのです。
イエス様は「せわしく」働いていたマルタに「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」と言われました。そして必要なことはただ一つ、目の前におられるイエス様のみ言葉きくことだと言われました。心が亡んでしまわないように、いま何をイエス様は求めておられるかを考えましょう。忙しそうに働くことではないと思います。
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