ヤコブ 1:22 自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。
「人の話を聞いてない」と指摘されることがあります。 この年になると集中力もなくなってきますから、自分に興味のない話や、とくに影響がなければ聞き流すという悪い癖がついてしまったのかもしれません。しかし、まだ聞き流すというのはまだ自分の意思が働いているように思います。ところが聞くだけというのは、はじめから相手を受け入れないという姿勢があるようです。
聖書の中には「聞く」というみ言葉はたくさんでてきます。聞くこととはどんなことでしょうか。聞いたらそれによって何かが起こることを意味しているようです。ヤコブは「聞くことだけに終わるもの」になってはいけないと諭しています。聞いて理解し、そして行うことがもとめられています。その行いは「受け入れる」ということです。
自分に余裕がないときは「笑い」が一番。健康にも「笑い」が一番。さっそく、以前から買っておいた「爆笑漫才大ヒットパレードCD」を聴いてみることにしました。さすがに、「ダイマル・ラケット」「いとし・こいし」「かしまし娘」「千里・万里」「レッツゴー三匹」「唄子・啓助」といった大御所だけに大笑いしてしまいました。ところが、一緒に聞いた高校生にはあまり面白くなさそうです。普段は吉本新喜劇をみて大爆笑しているのに、いっこうに笑いません。どうやら、動きがないのが面白くない原因のようでした。生まれてこの方、テレビで育った高校生たちにはラジオで聴く漫才は興味がないらしいし、どこが面白さのポイントかがわからいようでした。この世の中、だんだん言葉だけでは伝わっていきにくくなっているのかもしれません。キリスト教は聞く宗教だといわれます。神様のみ言葉を聞く宗教です。「イスラエルよ聞け」という言葉が何回も聖書にでてきますし、「聞く耳のあるものは聞くがよい」と主イエスは言われました。主のみ言葉を聞いて理解することは、以外と大変な事ですし、じつは私たちの中の準備が一番大切と思われます。
ヤコブは「自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません」と教えています。たいていの人は「聞くだけ」になります。しかし、しゃべり続ける人は「聞くことさえできない」人です。聞くことは相手を受け入れることです。それがなければやっぱり「聞くことさえできない人」になってしまいます。せめて聞くだけからはじめて、本当の聞くことを学んでいきたいと願います。それは受け入ることへとつながっていくからです。
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