フィリピ 2:4 めいめい自分のことばかりでなく、他人のことにも注意を払いなさい。
「イソップ物語」の中に次ぎのような話を見つけました。
「農夫の畑に、木が一本ありましたが、くだものがならず、やかましいスズメやセミの休み場になっていました。農夫はくだもののならない木だから切ってしまおうと思いました。そこでおのを持ってきて一度切りつけました。セミとスズメは、自分たちの休み場を切ってしまわないで、いままでどおりそこで歌をうたわせて下さいとたのみました。ところが農夫はそれにはかまわず、二度三度と切りつけました。ところが、その木はうつろになっていて、ミツバチのむれとハチミツが見つかりました。農夫はハチミツをなめて、おのを放りだして、その木を神木におまつりしてだいじにしました。人間というものは、生まれつき正しいことを大事にして敬うよりも、利益を求めるものです」。私たちは「身勝手な存在」かもしれません。自分を考え、利益に従って変わる弱い存在かもしれません。しかし、それでも神様は導いてくださるのです。
パウロはまず2章のはじめに「へりくだる心」を持つことを薦めています。また、キリストによる励まし、交わり、あわれみの心が与えられていると告げています。そのことはキリストの十字架の出来事として確認できるというのです。キリストの十字架を思いながら、自分たちの生き方を点検するように勧めています。すべてはキリストがどうされたかを考えることです。
ある本で次の言葉をよみました。「人間の見方ほどあてにならないものはない。多くの人間は自分を中心にしてそこからすべての物事をみるものだ」と。つまり、その視点が正しいかどうかは問題にしていないというのです。本質は違っていても、自分の視点こそが正しいものとしていると。具体的なたとえも書いてありました。かわいいぬいぐるみを持った一人の女の子がいます。彼女はそれを誰にも触らせてくれませんし、まして貸してもくれません。多くの人は「なんてわがままな女の子だろうか」と思います。しかし、その子の母が昨晩天に召されて、そのぬいぐるみはお母さんが大切にしていたものだということがわかったとき、人はその女の子を「わがまま」とは思わない。すべては、自分の視点でしかみないことに間違いがおこる。
パウロは「他人のことにも注意を払いなさい」と言います。そして見本はイエス・キリストだと言っています。いつもイエス様だったらどうされるか考えてみようということです。自分の視点の転換がおこるとき、より本質に近づいていきます。イエス様だったら、女の子のすべてを知ってぬいぐるみと共に抱きしめてくださると思います。
<音声礼拝説教は「神様の色鉛筆」でどうぞ