ルカ 11:2 祈るときには、こう言いなさい。「父よ、」
聖書を学ぶ会の時、開会の祈りがありました。「祈りましょう」という言葉の次にでてきたのは「今日はここに集まることができました。感謝します」でした。とても、違和感がしました。私たちが形式的になっているのかもしれませんが、祈りの言葉の初めは「天の父なる神様」等の呼びかけからではないかと思ったからです。いったい自分たちはどなたに祈っているのか。誰に感謝しているのかと思ったからです。祈ることもきちんと教えられないといけないものだと感じました。
イエス様は、弟子たちの願いにこたえて祈ることを教えられました。どのように祈っていいかわからなかったからです。弟子たちの「祈りを教えてください」という切実な願いをきかれたのです。その時、教えられた祈りが「主の祈り」です。この祈りは始めに「父よ」と呼び掛けがあります。神様を「父」と呼んでいいと言われたのです。自分の父を呼ぶように、語りかけてよいと。この一言に祈りの奥深さを感じます。
ある保育園は1階あがると礼拝堂になっています。その礼拝堂にさわやかな声が響いていました。牧師は毎日その声を聞きたいので、その時間には必ず牧師室にいるようにしていました。その声は保育所のすみれ組の「はるか(2歳)」ちゃんでした。はるかちゃんは毎日、保育所からの帰りに必ず教会へやってくるのです。そっとみていますと、扉のところへ来て、「イエス様さようなら」と深くお辞儀をするのです。モニターの下にあるイエス様にまでお辞儀していました。お迎えのおじいちゃんが「きょうは早くかえるから教会へいかない」といっても、絶対だめ。一人でもやってきて「イエス様、さようなら」と挨拶をしていきます。その声のさわやかなこと。元気なこと。毎日はるかちゃんの声を聞くと元気になりました。はるかちゃんは誰に教えてもらったわけではありません。きっと、何回か教会へきて保育所の礼拝にでているうちに、イエス様の存在がわかったのでしょう。子供たちは、神様と会話できる何らかの方法を身につけているかもしれません。毎日、神様と話しているにちがいありません。祈る相手を知っているのです。
イエス様は弟子たちが祈る時、神様に「父よ」と呼びかけなさいと教えられました。神様を「父」と呼んでいいと言われたのです。心から「父よ」と呼びかけなさいと。神様を「父よ」と呼びかけているすべての人たちは、全員が兄弟姉妹となります。主の祈りをとおして「わたしたち」の交わりはどうすればいいのかも教えていただけているようです。
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