ヨハネ 19:42 その日はユダヤ人の準備の日であり、この墓が近かったので、そこにイエスを納めた。
牧師としてこれまで多くの葬儀に立ち会ってきました。臨終の祈りにはじまる式では、はじめは涙しかありません。愛する者の亡きがらを目の前にして、何をどうしてよいのか。ただただ悲しさの中に人は置かれるのです。そのご遺族に笑顔が戻る瞬間があります。それは、火葬場の窯の蓋がしまった瞬間です。なぜここで笑顔がもどってくるか、この世での別れ受け止め、次なる世での再会を確信するかではないかと思います。区切りをどこかでつけなければならない。はじめての区切りが、火葬場でのその瞬間だと思います。
イエス様は、十字架上で完全に息を引き取られました。人々はイエス様の死を確認して、ピラトに埋葬を願いでました。そして、人々の手によって確実に墓に納められたのです。安息日が始まってしまうので、一刻も早く墓に納めねばならなかったのです。悲しんでいる余裕などなかったことでしょう。愛するイエス様の体を、何とかして墓に納めるまでしたいという悲痛な気持ちが伝わってきます。
私たちは、愛する者の死に直面したとき、それを受け入れることに多くの時間が必要です。その死を受け入れられないからです。なんとかもう一度、命を取り戻したいという思いがあります。幼い子どもを天の送られたお父さんは、遺族挨拶で次のように述べられました。「この棺を揺り動かして目を覚ますのなら、もういちど話がしたい」と。しかし、人はその死を受け止めなければなりません。
イエス様の死を誰も認めたくはなかったでしょう。しかし、確かに十字架上で息を引き取られました。ところが、この死はこれで終らなかったのです。人々はイエス様の死を受け止め、墓に納めて終わりにしようとしました。ところがイエス様の命は、これで最後ではなかった。イエス様は死ななければその復活はありえない。そんな命のつながりがあったのです。よみがえりの命という続きが、人間の新しい希望となりました。
<音声礼拝説教は「神様の色鉛筆」でどうぞ>
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