ヨハネ 16:16 しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。
子ども天に送らねばならなかった被災者の方々の痛み苦しみはどれほどだろう。そこに身を置いていても、本当の痛みを知りことはできなかったと思います。実際持っておられる方々の痛みが解ったというのは傲慢のように思えました。わからないけれど、一緒にいさせてくださいと言う思いしかありませんでした。この痛みを知るのは、十字架にかかって死なれたキリストのみではなかろうか、そんなことをいつも考えていました。
ヨハネによる福音書に、イエス様の決別説教があります。最後の晩餐のとき、弟子たちを前にして語られた言葉を集めたものです。その中で、十字架を前にして「悲しみが喜びにかわる」ということを教えられました。弟子たちにとって十字架の出来事は大きな悲しみである。イエス様の死を見ることなのです。しかし、復活という新しい命に生きる時、また再びイエス様を見ることができると言われるのです。それは「しばらく」の時間なのだと。悲しみが喜びにかわる約束の中で、私たちは生きて行くのです。
救援活動中の新聞に「大川小学校に母子の石碑が建てられた」というニュースをみました。写真ではよく見えなかったのですが、母親が子供を抱き締めている像のようです。子どもたち、教職員を含む84名の方々が流された場所で「命」ということを考えてきました。慰霊碑には「百日たったいまも、会いたくて、会いたくて、会いたくて・・・」という、子どもを天に送られたお母さんの手紙があります。教会、学校、幼稚園、保育園、施設。今回、ルーテル教会が母体となっている関連施設は、すべて「命」を預かるところだということを深く教えられました。この命との出会い、なくしてしまった命、復活という新しい命。もう一度「会いたくて」というお母さんの手紙から、その大切さを教えられています。
イエス様は「またしばらくすると、わたしを見るようになる」といわれました。口語訳では「またしばらくすれば、わたしに会えるであろう」と訳されています。「会いたくて」という悲しみに、イエス様は「会える」と言って下さいます。多く悲しみ、苦しみを十字架の死によって体験されたイエス様が「会える」と言われています。そのみ言葉を被災地に届けることができればと願っています。
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