マルコ 2:17 医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。
牧師たちの中にも明らかな現象がでてきました。精神的に落ち込むだけでなく、それに耐えられなくなって職務を続けることができないことが起こっています。なにかおかしいと思うのです。深夜の祈りで「自分はどうしてこんな状態だろう」と考え落ち込むことがあります。「何をやっているのか」と情けなくなることも多いです。それでも祈りの中にいると、イエス様のみ言葉をいただき、もう一度やってみようと勇気を与えられます。こんな時だからこそ、聖書をしっかり読むことが大切です。旧約聖書には、いま社会で起こっていることのすべてが書いてあります。殺人、汚職、いじめ、不倫、暴力・・・。すべて聖書の中にでてきます。その中で、人間はどのように生きてきたか、神様はどのように導かれたか。御子イエスは、なぜ私たちのところに来てくださったかを再確認するのです。深夜の祈りの中でいただく勇気は、み言葉が支えてくださる勇気です。どんなことがあっても、となりにはイエス様がいてくださるという勇気です。
イエス様は、徴税人レビが収税所に座っているのをみられました。そして「わたしに従ってきなさい」との一言で彼を弟子として招かれ、そこで一緒に食事をされました。これを見たファリサイ派の律法学者たちはイエス様を厳しく批判しました。徴税人は律法に即した正しい生き方をしているとはみなされず、罪人とされていたからです。それに対して言われたみ言葉が「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である」というものでした。
マザー・テレサの言葉に「訪ねて来た人に、来る前よりもいい気分、幸せな気分になって帰ってもらえるようにしましょう」というのがあります。これは客を招く時の最低限の礼儀であり、おもてなしだと思います。しかし、マザー・テレサはもう一言付け加えています。「あなた自身が神の優しさを表現する人になりなさい」と。私たちは神様の優しさを表現するという視点をもって、人と接することが大切だと思います。イエス様ならどうされるかを、つねに考えて行動することが求められています。
イエス様は「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と言われました。本当に救われなければならないのは罪人です。罪人とされている人たちもいます。イエス様はあえて自分を正しいとしている人たちにではなく、本当に救いを待っている人たちのところに行かれました。神様の優しさの表現は、このイエス様のみ言葉と行いでよくわかります。
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