ルカ 23:39 十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。
一人の姉妹が神様のもとへ召されました。教会員の親族のかたでした。洗礼をうけておられるわけではありませんでした。彼女はもう余命もいくらもないというときに視力を失くされました。自分の死を自覚された時、従妹であった教会員さんの手に「ぼくし」と書かれたそうです。彼女はその時牧師に会いたいと言われました。すぐに出かけていきお話をし、祈りました。はじめは「こわい」ということを話されましたが、祈りには涙で感謝されました。それから3日後に召されていかれました。一粒の涙が最後の時の証にみえました。平安を得て召されていかれたように思います。
イエス様が十字架に架けられたとき、左右に1本ずつ犯罪人の十字架が立っていました。この2人は人生最後の時をイエス様と一緒に過ごしました。ただ、一人は救われたのですが、もう一人は最後までイエスさまをののしっていました。人生の最後での言葉がののしりだったこの犯罪人は、救いが何か、一緒にいてくださっているイエス様が神様であることを信じることができなかったのです。
「人生の最後の瞬間に何をしているかを考えたことがありますか」と、ある本で問われました。たぶんいままでの人生を振り返り、一番大切な人のことを祈っているかもしれません。その本にはつづけて、人生の最後に神様が現れて「あなたは生まれ変わって、もう一度、同じ人生を過ごすことになるけれど、それでもいいか」と問われたら何と答えるかともありました。一番幸せな答えは「いろいろ大変なこともありましたが、もう一度この人生で結構です」というものでしょう。すべては神様の御心のままに生きているのですから、この人生でよいのです。
聖書は十字架上の出来事の中で「十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった」と記しています。私たちの働き、人生を考えるとき、終わりから考えることも必要です。神様のもとで復活の命を与えられる私たちは、その救いから振り返って今を見ることが求められています。確実な救いからみて「今」はどうかを考えてみましょう。「もう一度この人生で結構です」と言える信仰を与えられています。その信仰に立って今日を生きていきましょう。
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