マルコ 4:14 種をまく人は、神の言葉をまくのである
中国にいる友達から手紙が来ました。「変えようと思わないこと。変えようと思う欲望は愛の敵。自分を変えようと思わないこと。ありのままの彼らを愛すること。世界を変えようと思わないこと。それは神様の手の中にあるから。そして神様はそれを知っている。このことがわかれば不思議と変わってくるものだ。荷物に邪魔されないように人生の流れに身をゆだねること」まるで禅問答でしたが、神様がなさることを変える力など人間にはないということでしょう。神様だけでなく、人を変える力も持ち合わせてないのかもしれません。神様はその存在だけで力があるということを学びました。
聖書の中に「種まきのたとえ」という有名な話があります。イエス様は、たとえを話されたあとで、弟子たちに説明を求められます。そこで語られたみ言葉です。イエス様は、種とは神のみ言葉あると教えられました。このたとえをとおして考えるならば、種まきが土地に関係なく種をまいたということですから、すべての人々に神様のみ言葉がまかれていることになります。
神様のみ言葉を届けるというのは、大変難しい行為です。自分が伝わったと思うほど、全然伝わっていないからです。子ども説教をすればよくわかります。自分が伝えたいと思えば思うほど、子どものほうから逃げていきます。ところが、必死になって語っていると、自分でもなんだかわからない話をよく覚えています。神様のみ言葉は、それだけで力があります。私たちがどんな細工しても、神様のみ言葉はただそれだけで力なのだと信じない限り、人々には伝わっていかないものです。
聖書を読むことも「神様の言葉」が自分にまかれることです。この御言葉から何を福音として受けたか。それだけを考えればよいのです。どんな福音を毎日いただいているか。それは自分の生きる糧になっているか。今日まかれた福音の種が芽を出すには、心を開いて種をうけいれることからです。
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