ヨハネ 19:26 婦人、よご覧なさい。あなたの子です。見なさい。あなたの母です。
十字架上の7つのみ言葉の第3は「婦人よ、ご覧なさい。あなたの子です。」というものです。
十字架の出来事の時、そばには3人のマリアがいました。その一人が母マリアです。イエス様は母マリアに、これからは弟子を子としなさいと言われました。そして弟子には、マリアのことを弟子の母として委ねられました。最後まで母と弟子たちを愛された姿を示されたのです。母というのは教会の比喩であるとも言われています。しかし、最後まで「愛」を示されました。
ある歴史雑学の本に、アレクサンダー大王のことが書かれてありました。アレクサンダー大王といえば、全世界を自分の手に治めた王です。その雑学の本には、「アレクサンダー大王は、当時の世界を自分の手の中に握っていた。その彼が死ぬとき、『われを葬るときに、わが両手を開いたままで、棺の外にだしておいてくれ』と遺言したそうである。天下を握ったと思った手に、実は何も握っていなかったことを知った、というなぞなぞだったのだ」と書かれてありました。
この本を読んだとき、さすがに天下を統一する人は違うなと思いました。しかし、よくよく聖書を読めば、神様に従った王様はダビデをはじめとしてすべて謙虚であることに気がつきます。実は全てを手に入れたと思ったときに罪を犯しているのです。神様の前で謙虚になる時はどんな時でしょうか。それは全てが自分の手ではどうしようもなくなった時です。そこにくるまでに人は分からないのです。ところがもっとも謙虚にならなければいけない時があります。それは全てが順調にいっている時です。「いま神様がなさっている」「これをしてくださっているのは神様だ」と感謝し、ひれ伏すことです。もしそれができないのであれば、「悔い改め」を祈るしかありません。私達が遺言で遺すのはこの「悔改めて愛しあいましょう」だけかもしれません。
イエス様は「婦人、よご覧なさい。あなたの子です。見なさい。あなたの母です」と言われました。どんな思いで、母に弟子を託され、弟子に母を託されたか。それは愛を示すためでした。その愛を私たちも受けています。十字架の上で、愛するという使命を委ねられた教会に私たちは招かれているのです。
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