マタイ 6:12 わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。
小さい時から「人に迷惑をかけてはいけません」と教えられてきました。迷惑をかけなければ何をしてもいいということではありません。ところが、インドでは「人は何をするにも人に迷惑をかけている」と教えているそうです。迷惑をかけている私たちは、周りの人たちから赦されて生きていると。同じことを言っているようですが、考え方、生き方の内容はかなり違います。自分がどのくらい人に迷惑をかけているかを知ることは大切です。それを知った上で、人と接することで相手を受け入れることができます。迷惑をかけないという生き方ではなく、迷惑をかけているけれど赦されて生かされていることを知るのです。その上で、自分の言葉の点検、行いの点検をする必要があります。まずは自分を省みることが大切です。
イエス様は、弟子たちに祈ることを教えられました。その一つに「主の祈り」があります。教会誕生の早い時期から信者の集いの中で祈られてきました。現在でも「主の祈り」は教会の礼拝で祈られています。世界中のどこかで、毎日祈られているのがこの祈りです。この「主の祈り」の中に、「わたしたちの負い目を赦してください」という祈りがあります。そのあとに「赦しましたように」が付け加えられています。まず自分からだと言われています。
会議であまりにも座っていることが多いし、他の仕事をするわけでもなく、目の前のペットボトルをながめていました。するとそこに「新俳句大賞高校生の部大賞」と書いてありました。その大賞句は次ぎの句でした。
母さんが いるからずっと 鬼は内 田沼照奈
何回も見直しましたが「鬼は外」ではなく「鬼は内」と書いてあります。母さんがガミガミとうるさくて、母さんそのものが鬼だというのでしょうか。それではあんまり悲しいことだなと思っていました。母さんもわざとガミガミ言っているわけではなく、子供のことを思いあまってそうなるのでしょうね。それにもまして、この句を大賞にした人達の心はどんな心なんだろうと考え込みました。「鬼は外」であればそこに「愛」を感じることもできるのですが。自分の内をみてまず悔改めることが大切なのです。
イエス様は「わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」と祈りなさいと言われました。まず自分からだと言われたのです。その祈りに立って、自分の言葉、行いを省みなければなりません。迷惑をかけないではなく、迷惑をかけているけれど赦されていることを考えてみましょう。その上で、人とどのように生きて行くかを考えていきましょう。
<音声礼拝説教は「神様の色鉛筆」でどうぞ>
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