臨床宗教師の働きとして、緩和ケア病棟で傾聴活動をしています。緩和ケア病棟の方々の多くは、人生の終わりを見据えて入院されています。
余 命宣告を受けた方。癌の告知を受けた方。それぞれ自分の死を受け止め、また受けとめようとされています。その場に宗教者として身を置くことの厳しさを感じます。ここでの自分の存在はいったい何か。宗教者としての自分が、この苦難の現場に立つこと、立たされること、立たねばならないことの苦悩と厳しさです。簡単に死を受け止めることなどできません。そのような存在の前に自分の身をどのように置くのか。私自身の全生涯がさらされる、誤魔化しがきかない現場に立つのです。神様とつながる信仰がなければ苦難の現場に立つなどできません。信仰があるからこそ苦難の現場に必死になって身を置いているのです。そこにこそ宗教者が必要とされています。
90歳を超えたおばあちゃんがおられます。初めての入院が緩和ケアでした。すでに自分の死の宣告を受けておられます。大正生まれですから、人生の中で戦争や飢えなど痛み苦しみはたくさん経験されています。そのおばあちゃんに教えられたこと。「私はね寝る前にいつも万歳するの。そして大きな声で3回言うのよ。『今日も1日幸せだった。ありがとう』ってね。これまでも毎日やってきた。どんなことがあっても幸せなんですよ」と。そして「幸せ~」と二人で大きな万歳をました。それだけです。それだけでも幸せな臨床宗教師だなと思いました。死を目前にしておられますから、痛み苦しみはあります。人生の中にもそれはあります。しかしこの「幸せ~」のなかに寄り添う苦難があるのです。そこを受け止める感性を問われています。
苦難の現場に寄り添う。東日本大震災からの問いかけの中に今もいます。