マタイ 4:20 二人はすぐに網を捨てて従った。
先週のことある子どもが一生懸命に石を拾っているのに気がつきました。別に何をするでもなく、拾っては捨て、捨てては拾っているのです。思わず山頭火の句を思い出しました。
秋 風 の 石 を 拾 う 山頭火
禅の教えでは「捨てる」こと、「捨て去ること」を一つの目的としているのでしょうか。捨てることの意味を説いた言葉が多いことに気がつきます。しかし、人間捨てるばかりではバランスを欠いてしまうのではないでしょうか。それで思わず意味のない小石を無意識に拾っているということかもしれません。イエス様は私たちに、捨てることも、拾うことも赦してくださっています。ペトロがイエス様を捨て去っても赦しておられます。しかし、捨てたり拾ったりする人間を決して、イエス様は捨てられない。むしろ拾うのみに徹しておられるのが、十字架の意味だといえます。イエス様は拾ってくださる。その信頼が私たちを平安に導いてくれるのです。
イエス様は、ガリラヤのほとりを歩いておられた時、2人の漁師ペトロとアンデレを見かけられます。そしてすぐに「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われました。この突然の召しに、ペトロとアンデレはすぐに網を捨てて従ったのです。イエス様の突然の召しにも驚きますが、それにすぐに答えた2人の決断にも驚かされます。
東日本大震災の支援活動で漁師さん達と出会いました。「あんた若いから漁師になんねえか」と笑いながら言って下さいました。そのあと「ここの漁師の半分は津波に流されたからよお~」と言葉が続きました。漁師さんの一言が胸に迫ってきました。それでも漁を再開するために浜の廃材整理を漁師さんたちはしておられます。大量の廃材が浜や海の中にあって、舟をつけることができないからです。「わしら漁師だから漁しかできないっぺさ」と笑いながら言われます。そう思うと、漁師が網を捨てるということの重みを感じます。それがいかに人生における大きな決断なのかを教えられました。浜の漁師さんたちは網を捨てず、網を手に取るために毎日汗水流して浜の整理をされています。なぜなら漁師が神様から与えられた仕事だからです。
イエス様に弟子として召されたペトロとアンデレは、網を捨てて従っています。大きな決断をしたのです。しかし、2人を召されたのはイエス様です。神様の呼びかけに応えたのです。それぞれに与えられた働きがあります。それは神様がその働きに召しておられるのです。弟子となって働くことも、漁師として働くことも、すべては神様の召しが何であるかということなのだと思います。そのことを拾ったのでしょう。
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