マルコ2:27 安息日は、人のために定められた。
お祭りでは、たくさんのお店(屋台)がありました。売れている店、そうでない店と様々でした。よく観察していると、売れている店の特徴は、やっている人が「楽しんでいる」こと。そしてなにより「この人から買いたいと」と思ってしまうことです。そのような店には人が吸い込まれていくのです。買ってくださいと叫んでもいないし、大袈裟な装飾もないのですが、この店ならと思わせる何かがそこにあるのです。売るための店ではなく、買っていただくための店のようです。
安息日に弟子たちが麦の穂を摘む姿をみて、ファリサイ派の人たちに「律法に違反している」と批判された時のイエス様のみ言葉です。「安息日は人のため」か「人が安息日のためにいる」のかとイエス様は問います。じっくり考えてみると毎週の安息日の過ごし方がどうであったかを問われる一言です。
NHKの昼のトーク番組に、志村けんというコメディアンがでていました。志村けんといえば、小学生時代にはよくテレビでお世話になったものでした。どうしてあんなに面白いのだろうといつも思っていました。さて、その彼が下積み時代の苦労話や、何をやってもお客さんに受けなかった時の話しをしていました。そして振り返ったときの感想として「がんばっていたから受けなかった」と。もっと正確に言えば「一生懸命頑張っているところを、お客さんに見せていたから」と。あるとき自分が自分で楽しいことをしたときにドッと受けた。そのときわかったことは、人には「彼は遊んでいる。自分が楽しんでいる」と見られなきゃいけないということだったそうです。もちろん、表面では遊んでいるように見せても、裏で一生懸命でなければならないと言っておりました。キリスト者の生き方もそうかもしれません。表面では楽しそう、いつも喜んでいるようにみられても、内心では神様と常に向かい合っている自分がいるのです。頑張っているところを見せるのもいいですが、信仰の喜び、楽しさを見ていただきながら、真剣に神様と向かい合っている自分でいたいなあと思います。
私たちの人生も一度違う角度から見てみたらどうでしょうか。礼拝後集まりは何のために与えられたのか。きっと神様から与えられた今日の仕事を「楽しく」「元気に」「確実に」行っていくためだと思います。今日もまたここに集められた私たちは神様の祝福のうちに生きてまいります。
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