上智大学で行われた宗教者震災シンポジウムで話したことの一部です。
宗教者として心のケアをする準備ができていたか?いくつかの言葉からそれを考えてみたい。最後まで行方不明者だった大学生のお父さんが、「息子は生きている。必ず見つけてみせる。探すのはあたりまえだろう。あいつの親だから」という親の思い。執念で探されて犠牲者の最後に見つかった。この「息子は生きている」という言葉に宗教者はどのように寄り添えるかを考えさせられた。人から見るとすでに死んでいるとみえる。しかし「息子は生きている」という苦難に寄り添えるかです。
九州電力の貯水池が立野地区にあり、今回の地震で崩壊した。そのために命と土地が失われたことについて住民のお一人が、土地の保障の問題、自然災害ということで保障もないことに対し「納得はしていない、でもしかたがなかった」。「廃村の危機感、思い出が詰まった土地を奪われる苦しみは、最後まで伝わらなかったのが残念だ」。ふるさとの村がなくなるとはどういうことかを当事者として実感した。その苦しみを、誰かわかってくれるのかと訴えている。最後まで思いが伝わらなかったと言う言葉に宗教者としてどのように寄り添うのか。
私は牧師だけれど、「実家からなんとか阿弥陀様とお位牌を救い出したい」と母に言われ、それを高校生の信徒と共に救い出した。母の「ご先祖さまに申し訳ない」という気持ちを整理できた。父の帽子が思いがけないところから出てきた。父が見まもっていてくれたのではないか。宗教を超えて、思いを超えてその人に寄り添う覚悟が宗教家者にあるか。宗教者の平時の覚悟ということは、苦難の現場に寄り添う覚悟と姿勢だと考えている。こんな話をしてきました。
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