1コリント 13:2 預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。
「自分はなんでも持っている」と言う人がいました。何でも持っているなら幸せですねと答えました。すると、物はなんでも持っているし、これ以上いらない。しかし、本当に必要な物を持っているのか疑問だというのです。特に何不自由なく生活できる財産はあるけれど、さみしいという相談でした。イエス様は「受けるより与える者は幸い」と教えてくださいました。たくさんの物を、人々に分け与えた時、はじめて本当に必要な物が見つかるかもしれません。全てを与えつくして何が残るか。残ったものが、神様から与えられた確かな恵みだと言えます。
本日の聖書は、新約聖書の中でも有名な「愛の賛歌」の1節です。パウロはコリントの人々に、「最高の道を教えます」と言っています。その冒頭に「愛がなければ一切は無に等しい」というのです。愛がなければ一切は空しく、何の価値もなく、無益であるとまで言っています。しかしその「愛」は「神の愛」であることが引き続き語られていきます。私たちは「愛」と言うとき、自分の中にそれを見つけようとします。しかし、私たちの中に見つけようとしてもみつかりません。「愛」は神様のもの。神様か毎日与えられるものだからです。その愛を自分の中に留めておくことのむずかしさを思います。
ご主人を先に天国に送られた方が「いまでも隣にいる感じがする時がある。昨日も夜中に目が覚めて、ハッと隣に主人を感じた」と言われました。すると、もう一人の方が「そうなのよ。台所で炊事をしていると、隣の部屋でお茶を飲んでいる主人を感じることがある」と。またまた別の方が「私もそんなときがあった。ふとテレビを観ていると、横で主人も観ているような感じがするときがある」と。けっして幽霊の話ではありません。愛する方の存在をいつも感じることがあるという話です。ともに生活してきた夫婦だからでしょうか、なにか守られているような特別な感じかもしれません。「イエス様を感じる」という時が誰にでもあります。いまそこでイエス様がこちらを見て微笑まれたと感じたり、こっち、こっちと呼んでくださっているような感じ。イエス様が病気のときに手を触れてくださったなどなど。どれも本当のことだと思います。私たちはイエス様から愛されています。その愛に応えて生きているとき、神様を感じることができるのです。互いに愛し合っていればこその感覚だと思います。
パウロは「愛がなければ、無に等しい」と教えています。どんなに賜物があっても、才能があっても、大切なことは中心に何があるかです。パウロは「愛」といいます。しかしこの「愛」は神様の愛であるアガペーです。すべては神様が中心になければ無に等しいというのです。
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