ヨハネ 8:44 悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。
ある牧師が恋愛時代の話しをしてくれました。「神学生だった自分は純粋で手も握ったことがなかった。あるとき公園のベンチに座っていたときに、何か言わなければいけないような気がしていたけど言うことがなかった。それでも思い切って『今一つだね(いま心が一つになっているね)』と言った。するとしばらくして彼女は、悲しい顔をしながら『私っていまひとつなの?』と言ったんだよね」と話しておられました。みんなで大笑いしました。同じ言葉でも、伝わり方が違うと大変なことになってしまうものです。自分はそう思っていなくても、間違って伝わっていくことがあります。さて、私たちはイエス様のみ言葉を正確に聞いているでしょうか。正確に聞き取るには何度も聞き返すことしかなさそうです。何か違うと思った時ほど、本質からずれているかもしれません。
ヨハネ福音書では、イエス様とユダヤ人たちとの長い論争が書かれてあります。しかし、どうも噛み合いません。イエス様の言われていることを理解できない。むしろ、そのみ言葉を受け入れることができない、信じることができないことが問題です。神様を父としているならばイエス様の言うことが分かるはずだが、分からないのは悪魔の子だからだといわれるのです。その本性が問題なのだと言われるのです。
教寓話集の中に次のような話しがあります。「あるところに、愚か者がすんでいました。あるとき、なまのゴマを食べてみると、ちっともおいしくありませんでした。そのつぎに煎って食べてみますと、それは大そうおいしく食べられました。そこで、煎ったゴマの種子をまいたら、なまの種子をまくよりおいしい実があるだろうと思って、なまの種子のかわりに煎った種子をまきました。さてどうなったでしょう」。いったいこの愚か者の何が愚かなとこかなと考えていました。しかし考えてみますなかなか、何が愚かなことかがみつかりません。簡単にいえば、煎ったゴマでは芽がでないことを知らないことの愚かさです。しかし、根本にある愚かさがあるのではないかなと思ったのです。「なまのゴマではおいしくないが、煎ってみたらおいしかった」ところが、そもそも間違いの始まりです。自分に都合がよいときに、人は愚かな道へと進んでいくのではないかなと思います。煎ってみておいしくなったのは、なまのゴマがゴマであったからです。根本にある確かさは、はじめのなまのゴマにあるのです。それを知らない、気がつかないところが愚かなんだと思います。
私たちの罪はどこからくるのでしょうか。やっぱり本性からだと言えます。そこにみ言葉を信じる信仰を与えられ、罪赦されて生かされる恵みが、その人を変えていくのです。何を中心にして生きているかを今日は考えながら過ごしてみましょう。
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