マルコ 10:18 なぜ、わたしを「善い」と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。
物事を判断するということはとても難しいと言えます。どうしても先入観が先に立ってしまいます。自分では正確に判断したつもりでも、その判断にはなにかしら影響しているものがあります。まっさらな自分で判断することができれば、良いか悪いかがわかるのですが。結局一つの判断基準を持たされてしまっているなと思うことがしばしばあります。
本日の聖書は、イエス様が旅に出ようとしたとき、ある人が走り寄ってイエス様に質問をします。彼は金持ちだったと聖書は記しています。質問の内容は「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」というものでした。それに対してイエス様は「十戒」を守る事、財産のすべてを施して「神様に従うこと」と答えます。その前に、イエス様は彼の質問の最初の「善い」という言葉に注目しておられます。なぜ私を「善い」というのかと。
Macが初めて触ったパソコンでした。やりだしたらやめられない楽しさがあり寝不足の毎日でした。初めはおそるおそる触っている程度でしたが、ちょっとやそっとでは壊れないと気がついたとたん大胆に扱っています。ところが、私よりも娘たちの方が覚え早いのにはビックリです。パソコンはあるシステムを覚えれば、初歩の扱い方はできます。そのシステムを覚えるのが子どもたちの方がはるかに早いのです。先入観がないからでしょうか。私はワープロのイメージが抜けず頭の切替ができないのです。先入観がないほうが、パソコンをありのまま受け取ることができ楽しんでいるのです。そういえば信仰もありのままに受け取るほうがいいのです。Macを扱う人を「エバンジェリスト」というそうです。日本語では「福音の宣教者」という意味です。このMacを使う喜びを伝えたくてしかたがないからです。先入観を捨て去ると喜びも増してくると言う事でしょうか。
イエス様は「なぜわたしを善い」というかと言われました。善い先生、悪い先生ということを決めるのは自分の問題であって、神様の問題ではありません。神様に対して、善い神様ならきく、善くない神様なら聞かないというものはありません。神様に対しては従うことのみです。私たちに今日与えられた働きも「善い」「悪い」はありません。すべては神様から与えられた働きしかないのです。だからこそ、小さいと思える仕事でも誠実に行うことを求められています。
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