マタイ 26:37 ペトロおよびゼベダイの子二人を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。
エルサレムには、キリスト教のエッセンスが凝縮していると感じることがあります。エルサレムの旧市街に、ビア・ドロローサ(悲しみの道)という道路があります。イエス様が死刑の判決を受けて、ゴルゴタの丘まで十字架を背負って通られた道です。ここには今もなお、多くの巡礼者でごった返しています。エルサレムでは一番の人気の場所です。ビア・ドロローサを通って、聖墳墓教会(ゴルゴタの丘があったところ)へ向かいます。いまもなおイエス様の十字架が立てられた穴と、おさめられた墓が残っています。驚かされるのはその聖墳墓教会の石の門柱に、十字架がたくさん刻まれていることです。中世から人々はここをめざして、死の危険にさらされながらやってきます。悲しみの始まりに人ややってくる。信仰の歴史を感じます。
イエス様は十字架の出来事の前にゲッセマネで祈られました。ここにはオリーブの園があり、エルサレムから谷を隔てた場所にありました。十字架の苦しみが迫ってくるなか、ここで3回も苦しみに満ちた祈りをささげられました。聖書にはイエス様の苦しみを「悲しみもだえ」「死ぬばかりに悲しい」という表現であらわしています。
キューブラ・ロスの言葉に次のようなものがあります。
地上で与えられている時間は限られている。
そして、その時間はいつ終わるかわからない。
そのことを十分に理解したとき
わたしたちは、今日が最後の日であるかのように
毎日を十分に生きることができる。
広島時代のことです。友人のあまりにも若い死でした。ケーキのお店を開店させたばかりでこれからというときでした。遺された家族にとって悲しみが大きく、私たちも同じように深い悲しみに沈みました。しかし、この悲しみはきっと癒される時が来る。その時は復活のときです。イエスは「私を信じるものは、死んでも生きる」と言われました。そして復活のときには再び会うことができると約束してくださいました。そこに希望の光があります。だからこそ毎日を十分に生きるのです。
イエス様はこの苦しみの中で、それを受け止め十字架への道を選びとられました。十字架はイエス様にとって自明のことではなく、深い悲しみ苦しみのはてに選びとられたものでした。生きて行くということも悲しみと共に生きて行くことを選びとることです。この選びに寄り添えるのは十字架のイエスだけだと思います。最後まで共に寄り添ってくださる方がおられるから、今日を大切に生きていきましょう。
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