マルコ15:39 本当に、この人は神の子だった
言葉は不思議なものです。たった一言で、たくさんのことが表現できます。「感謝」、「癒し」、「慰め」、そして「真理」。昨日、ある方から一本の電話がかかってきました。小さな子どもの家族を抱えながら、夜勤の仕事が多い看護師のお母さんからでした。彼女は仕事の疲れから、生活や人生、家族の重みに負けそうになったときに5歳の長男の言葉に命をいただいたというのです。その出来事とは、夜勤から帰った日、玄関をあけたらそこに長男がいたそうです。そして一言。「お母さんは偉い!だって夜じゅう病気の人のお世話をしてきたから」と。この一言ですべてが報われたといわれていました。言葉は大切です。「お母さんは偉い」の一言が、この母親を生かすのです。新しい命をあたえるのです。それこそが命ある言葉だといえます。
イエス様が十字架上におられたとき、ローマの百人隊長もそこにいました。この百人隊長はイエス様の十字架での最後をみて、「まことにこの人は神の子であった」と一言いっています。ユダヤ人たちは嘲弄し、最後までイエス様に対して攻撃を加えています。しかし、彼らからは罪人と蔑まれていた百人隊長だけが、イエス様が誰であるかがわかったのです。マルコでイエス様を神の子と呼んだのは彼だけです。この一言は新約聖書の中でも大切な一言です。
一休禅師の逸話に次のようなものがあります。
「あるとき一休さんが、めずらしく説法をするといいだした。人々は大喜び、いったいどんな話が聞けるのか楽しみに集まってきた。みなが集まり固唾をのんでまっていた。すると一休さんがでてきて、たった一言『らしくしろ』といわれた」。さすが一休さんだと感心してしまいました。つまり「らしくしろ」には主語がないのです。自分で考えて「それらしく生きろ」といわれたのではないでしょうか。しかし、この「それらしく生きろ」ということは、簡単なことではありません。私たちは「それらしく生きる」ことができないから迷うのです。立野は立野らしく生きようとしても、人のことが気になったり、そのために自分を造りかえようとしたりするのです。それならば主語を変えればいいのです。つまり「キリスト者らしく」生きようとしたらどうでしょう。もっとつっこんで「キリストのように」生きるとしたらどうでしょうか。私たちはキリストの足跡を一歩一歩たどっていくしかないのです。それが、「キリストにあって君は君自身でいたまえ」ということでしょうか。
マルコによる福音書では「本当に、この人は神の子だった」という一言で、聖書全体を表現しています。イエス様が誰であるかを教えてくれています。それは罪人とされていた百人隊長の一言を通して知らされるのです。たとえ誰が、どんな立場で語っても「一言」で真理を示すことのできる言葉を私たちも与えられている。それはすべて聖書に書かれてあります。イエス様は神の子である。それを宣教していくことが私たちの務めです。
<音声礼拝説教は「神様の色鉛筆」でどうぞ>