マタイ 8:17 彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った。
難病の友達をもつ牧師からメールをいただきました。そこには「私の親しい同じ歳の友人がALSという難病に昨夏より罹ってしまいました。彼は、えん罪によって自分が死刑囚になった思いがすると言っていました」と書いてありました。「えん罪による死刑囚」という言葉に、とても辛く心が痛くなりました。どうすればこの方の心に寄り添えることができるでしょうか。なにもできないことに気がつきます。しかし、そこに病を共に担うイエス様はおられます。
イエス様はペトロの家へ行き、熱を出して寝込んでいるしゅうとめを癒されました。その後、病を患っている多くの人々を癒されました。また、悪霊に取りつかれた人々には、み言葉によって悪霊を追い出されました。福音書記者マタイはその様子をみて、イザヤ書にある預言の成就みました。それが「彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った」です。イエス様はそこに寄り添っておられるだけでなく、その人の患いを負い、病を担っておられます。だからこそ私たちは痛み苦しみ神様に委ねることができます。そこから新しい生き方がはじまります。
「人間の痛みとか、苦しみとは何のためにあるのだろう」と考えるときがあります。神様は何のために、私たちに痛みや苦しみをお与えになるのだろうかと。その度に与えられる答えは一つでした。「神様を知るため」です。私たちは痛み苦しみの中で、神様と出会うのです。三女が高熱をだして苦しんでいました。親として変われるものならば、その高熱を引き受けたいと思います。しかし、どうすることもできません。親はただ祈るのみです。「苦しいけれどきっとイエス様がいっしょにいてくださるから。お祈りしようね」と。そして手を頭において祈ったのでした。日曜日の朝5時のことでした。昨夕からずっと眠りつづけていた娘が目をさまし、素晴らしい一言をいってくれました。「お母さん。もうなおったよ。きのうお父さんが頭に手をおいて祈ってくれたんじゃけえ、神様がなおしてくれたんじゃあ」と。とても苦しい出来事だったに違いありませんが、共にいて下さる神様を知ることができた貴重な体験だったと思います。私たちは神様に守られていきていると、その存在に気がつき感謝するということを忘れてしまいます。人は痛み苦しみにであったときに、神様の知るようになるのでしょう。苦しい時の神頼みではなく、私たちには共にいてくださる神様がおられることを思い出すのです。
イエス様は、わたしたちの患いを負い、病を担ってくださいます。それは十字架の主だからです。イエス様のみが、病の中で共に歩んでくださる唯一の神様です。私たちはその存在があることを感謝したいと思います。
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