マルコ 4:41 弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。
牧師として、被災地でみ言葉を語ることの畏れを感じます。3月11日の東日本大震災の日、はそこに共にいなかった者として、何を語り、何を共にすればいいのか。神様はこの震災を通して何を語ろうとされているのか。神様はいま何をしようとされているか。問いの日々でした。しかし救援活動の中で「もし神がいるのなら助けにこい」「神はなんで大震災に沈黙しているか」「神なんていない」といった言葉を聞いたことはありません。むしろ私のほうが問うているのかもしれません。被災者の方々がおっしゃらないのはなぜだろう。そのことはもっと私自身が深めて考えることです。
イエス様と弟子たちは向こう岸に渡るため舟にのり湖に漕ぎ出しました。しかし途中で激しい突風がおこり舟は大波をかぶって沈みそうになりました。弟子たちはこの自然の猛威のなかでどうしてよいかわからなくなりました。自分の命が危ないと思ったのかもしれません。イエス様は眠っておられました。しかし、弟子たちの問いに、風と湖を叱りつけるという方法で自然をおさめられました。弟子たちが一番恐れたのはそのイエス様に対してでした。
今回の熊本地震でのキーワードがあるとすれば「車中泊」ではないかと思います。家にかえることができない。車の中でなら安全でいられる。それだけではないように思うのです。東日本大震災のときには「恐れ」がテーマでした。しかしこんかいは「不安」なのだと思います。死と向き合った「恐れ」と、余震がいつくるかわからない「不安」。これはどこでどうちがうのかと思うのです。炊き出しの数が減らない。この不安からの解放がいつできるのでしょうか。「恐れ」と「不安」。しかしイエス様は大丈夫だといわれます。「安心しなさい」と。
弟子たちは「いったい、この方はどなたなのだろう」と驚愕しています。彼らは荒れ狂う風や湖の中にイエス様を見たのです。恐れの中で、イエス様をみつけて安心したのです。いや、イエス様の御言葉をきいて安心したのです。目の前にある想定外の自然の脅威のなかで、神様をみたのです。
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