フィリピ 4:6 何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。
フランシスコ・ザビエルの言葉に「神もイエスも知らない人は、いったい何をしっているのだろう」というものがあります。自分が何を知っているかを考えるとき、本当に知らねばならないことを知っているのかと問いたくなります。たくさんの本を読んで知識があっても、その人が本当に知らねばならないのは、他にあるかもしれません。生命の神秘を探求するために顕微鏡をのぞいても、そこに神を発見できないならば真実を知っていることにはなりません。どんなに多くの知識があってどんな難問に応えることができても、イエス様の何を知っているでしょうか。それに答えられないとすれば、真実を知っていることにはなりません。だとすれば「何」をという問いは私たちにとって永遠の問かもしれません。
パウロはフィリピの信徒を励まして祈りと願いを教えています。この言葉の前に「主はすぐ近くにおられます」と告げます。イエス様がすぐ近くにおられるのだ。だから心配せず、思い煩わず、近くにおられるイエス様に語りかけることを教えるのです。ただ、「何事につけ」の「何」を神様に祈り、願い、打ち明けるかはその人の信仰によることであり、その人がそのまま現れるところです。私たちが「何」を知り、それをどう求めているか。いつも考えています。
ある新興宗教の宣教師たちと対話を持っています。82万の信徒がおられるそうです。全世界には何人かはわかりませんが。キリスト教ではないと扱われてきました。どこがどう違うのかを知って話し合う機会が与えられたのです。しかし、やっぱり対話にはなりません。マニュアル通りの受け答えしかないからです。いくら質問してみても、マニュアルのような本で「それはここです。その問題はこれです」という具合です。わたしはこう信じています、という声が聞こえてこないもどかしさを感じます。それでもまた来ますといわれると、「マニュアル通りではないあなたの言葉を聞かせて」と思うのですがだめなのです。信仰にはマニュアルはないと思います。信仰にあるのは、「私はこのように信じさせていただいている」という自分の告白だけです。何を信じているか、どのような信仰を与えられているか、それが問題なのです。何を伝えているかは一番の問題です。
パウロは「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」といいます。まず感謝があり、それから神様と対話するのです。あれがほしい、これをしてほしいと自分のことばかりが祈りと願いではなく、神様の御心を聞くことが祈りと願いです。神様に打ち明けたことに応えてくださるみ言葉を聞くこと。人生の中で祈りと願いは「何か」を考えて過ごしましょう。「何」がわかり、その「何」の中心を探していきたいと思います。
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