1ヨハネ 3:2 御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。
ある学者の家が隣家からの貰い火で全焼しました。火事になると全てを失うことになります。蔵書から論文ノート、研究のための資料。彼は宗教者でもあったので、この火事をどのように考えたかをのちに語っています。彼はまず隣家の人を怨みました。「家を焼かれた」と思いいつか復讐してやろうと考えます。しかし彼は宗教者でした。これではいけないと「家を焼いた」と思おうとしました。けれどそれは事実と違うことなので、やっぱり納得できませんでした。そこで最後に「家は焼けた」と考えました。「焼かれた」でも「焼いた」でもなく「焼けた」と思うようにしたのです。すると、事実を事実のまま、淡々と受け止めることができ、自分も人も傷つけずにすむことがわかったというのです。
ヨハネは、御子キリストが再び現れるとき、見えないものが見えるようになるといいます。神様がどれほど私たちを愛されているかが見えるようになるのです。私たちを「神の子」として呼んで下さるほど愛していてくださると述べています。私たちの中に生きておられるイエス様を、ありのままに見ることの大切さを教えています。
カウンセリングの本に次のような話が書いてありました。外国のある学校の話です。その学校はとても評判の悪い学校でした。卒業生の中にはまともなものはあまりいず、警察のお世話になるものばかりでした。あるときそこの学校の先生は、驚くべきひどいことをしました。それは卒業生名簿を持ってきて予想を書き込んだのです。「こいつは泥棒。こいつは殺人犯。こいつは詐欺師」と。よその子の分まで将来の予想を書き込み、あたるかどうか同僚と賭けたのだそうです。十年後、その先生が追跡調査をしました。すると一つのクラスに限ってことごとく予想が外れてみんな立派な人になっていました。その学校始まって依頼のことでした。追跡調査の結果そのクラスの全員から、一人の女の先生の名前が聞けました。しかし、その先生は教師としての能力がないということで一年で止めさせられた先生だったのです。別に普通の先生でした。特に教育理論もない先生でした。今は老人ホームに入っているその先生からは特別なことは聞けませんでした。しかし、ただひとつ違うことは、卒業名簿をながめながら、「ああこの子は好きだったわ。この娘はどうしているだろう。好きだった。この子はやんちゃで好きだった」と涙を流していたのでした。人はありのままで愛されると変わるのです。キリストもありのままの私を愛されるのです。
「ありのまま」に受け取るということは難しいことです。しかし、「ありのまま」でしかないのです。私の中に生きておられるイエス様を「ありのまま」に見ることができれば、神様の愛を受け取る事ができると思います。
<音声礼拝説教は「神様の色鉛筆」でどうぞ>
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