今年もルーテル教会に3名の牧師が誕生します。私たちの教会で宣教研修をされた中島共生神学生も、今夕の教職受任按手を受けて牧師となられます。これからの宣教に神様の祝福を祈ります。来週は牧師となって大江教会に凱旋してきます。
この季節になると自分の按手を思い出します。私たちの頃はこの時期にいくつもの行事が重なっていました。卒論提出、審査、教師試験、任用試験、卒業試験、神学校の夕べ説教、卒業式、恩寵無限賞授賞式、送別会、出身教会挨拶、別府平和園での按手式、さらに結婚式。そして東京教会に赴任。人生で一番忙しい日々でした。それでも牧師に召された喜びと期待の方が大きかったかなと思います。いまでは楽しい日々でした。
そのような日々の中で卒業論文を書きました。テーマは「問と答えの意味と構造」というものでした。ソクラテスの問答法に興味がありましたので、それを手掛かりにティリッヒ神学の構造のさわりを少しだけまとめた者になりました。簡単に言えば答えが重要なのでなく、問いを問う事が大切だということです。先に答えを与えられていてもそれは答えにならない。問うことによってはじめて答えが答えとなる。そこから聖書を読む時も問うことからはじめるということでした。最近ある本で「正しい問いを持つ」ということを読みました。「問題や難局のてっとりばやい解決法は、的確な問いをもつことです」と。「正しい問いは、からな図正しい答えへと導く。問いがじゅうようなのです」と。
イエス様は「何をしてほしいか」と問われます。自分自身で問うてみなさいということでしょう。私たちは自分の人生で自分に正しい問いをしているでしょうか。答えだけを探しても見つからないのは、正しく問うてないからかなと思います。