使徒 6:4 わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。
「自分はこんなことのために生まれてきたのではない」という歌をきいたことがあります。叫び声のような歌でした。自分が本来やりたい事、やるべき事が出来てないという苛立ちがあったのでしょう。しかし、私たちの人生は自分がやりたいことばかりが出来るのではありません。やりたくないこともせねばならないのです。ところが、やりたくない仕事でもできることがあります。それは使命をもつことです。本来与えられた働きに使命をもったとき、不満やなやみなどからかいほうされるのではないでしょうか。そうなると、自分が生かされている本来の使命を考える方がいいようです。
イエス様の昇天のあと、聖霊降臨のできごとがあり教会が誕生します。初代の教会は人々の群れでした。その群衆の世話を弟子たちがおこなっていたようです。その働きは「祈りとみ言葉の奉仕」だけでなく、集会の準備、食事の世話、悩み苦しむ人の相談、トラブルの解決など様々でした。そのような状態のなかで、弟子たちは迷い苦しみ、本来の使命とは何かを考え始めたのです。その使命をはたすためにはどうすればよいかを考えました。その結果、人々の中から世話役を選出するということにし、自分たちは「祈りとみ言葉の奉仕」に専念することにしたのです。
ドラッカーの「非営利組織の経営」という本に、次のような話をみつけました。ある総合病院が看護士不足の対策に乗り出しました。看護士たちが「もっと居心地よく感じる」きめ細かい対策を立てて実行したそうです。しかし結果は不満が多くなるばかりで、看護士不足はかえって悪化したそうです。ところが別の病院は、まず看護士に「あなたは、何が自分の職務だと考えるか」と問うてみたそうです。すると皆「患者の世話をすることだ」と答えました。しかしそのあと「にもかかわらず病院は、雑用や書類つくりなど、患者の世話とは関係のないことを私たちにやらせている」と答えたそうです。問題の解決は早く、事務員を補充することだったとのべています。その後は病院の看護士は増え続けたというのです。
弟子たちは「わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします」と宣言しています。本来の仕事は何か?それを十分できているか?なすべきことと、なさないでいいことの区別がはっきりしているかということでしょう。弟子たちの本来の仕事、その使命は「祈りとみ言葉の奉仕」でした。このことに専念することが彼らを生かすことだったのです。わたしたちにはそれぞれ神様から委ねられた働きがあります。それを十分にできているかを考えています。
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