教会の十字架を毎日見つめています。ある時は祈り、ある時は静かに黙想の時が与えられます。朝6時の礼拝堂は清々しく、毎朝この十字架の前で自分の信仰を整える時間が与えられています。窓を開け放して風を礼拝堂に入れると、1日の始まりに力を頂けます。牧師の特権かもしれません。
さて、ルーテル教会の十字架にはイエス様の像はついていません。偶像崇拝を避けるためとも言われています。しかし、ルーテル教会の十字架は、復活を想起するためにあります。イエス様は復活してそこにはおられない。死に勝たれた「栄光の十字架」なのです。実はそれだけではありません。そこには同時に「苦難の十字架」が存在しているのです。ルターの神学の二面性がここにもあらわれています。
今年は受難節に十字架に紫の布をかけてみました。茨の冠が置かれていますので、ある人にはイエス様の姿が見えたことでしょう。そのような感受性も信仰には大切だと思います。さらに今日の受苦主日に違う布を掛けてみました。深紅の外套に見立てています。マタイ27章27節は「イエスの着ている物を剥ぎ取り、深紅の外套を着せ、茨で冠を編んで頭に載せ、」(聖書協会共同訳)と記しています。今日の主日は、そこに十字架の主を想起する礼拝です。そこに痛み苦しむイエス様を見出すことが出来るでしょうか。深紅の外套は何を意味し、私たちに語りかけて来るでしょうか。
大江教会はこれまでも様々な礼拝を企画してきました。五感に訴える礼拝がテーマです。見るだけでなく、心で、魂で感じる礼拝が必要だと思っています。これからも新しい企画の礼拝を企画していきます。ルターが礼拝革新したように、現代の私たちの心に届く礼拝が出来ればと考えています。