イザヤ 53:3 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの痛みを負い、病を知っている。
長崎・五島・天草の旅をしてきました。キリシタン巡礼という旅に、20名のアメリカの方々を案内させていただきました。キリシタンの歴史を深く学んだわけではないので、教会観光旅行かなと思って案内したのですが、この旅は信仰を深く見つめる旅となりました。殉教するとはどんなことか。そこまでして苦難に耐えたのはなぜか。五島の教会礼拝堂にある苦難の十字架がいまでも自分に語りかけてきます。
本日の聖書は、イザヤ書の中にある「苦難の僕」として有名な箇所です。イエス様の十字架の苦難を預言したものです。まさに十字架の出来事がここにあるといえます。「軽蔑され見捨てられる」イエス様の姿に心が痛くなります。しかし、イザヤは告げています。「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの痛みを負い、病を知っている」と。痛み、苦しみ、そして病を知っている方がおられるというのです。
東京の電車にはテレビモニターがついており、いろんな情報を教えてくれます。あるとき中央線を四谷から三鷹まで利用しました。天気、ニュース、マナー講座、今日の一品など。その中に「ネット検索用語ランキング」というものがありました。ネットで検索するキーワードで一番多いものは何かということです。1位は「痛み」でした。とても以外でしたが、「痛み」というキーワードが意味しているものを考えてしまいました。たぶん痛みには「心」と「体」の両方があるのでしょう。痛みを取りのぞきたい、痛みから解放されたいという思いから、なんとかしたいと「痛み」という言葉で検索をされているのだろうと思います。しかし、痛みを完全に取り除くことはできません。痛みがあるから生きているという実感もあるでしょう。痛みには深い苦しみと嘆きも感じます。
イザヤは「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの痛みを負い、病を知っている」と告げています。私たちは、痛みと共に生きていかねばなりません。でも、痛みを軽くすることはできます。痛みを共に負ってくださる存在に気がつくことです。あなたの痛みを共に負っている方がおられる。その方の存在に触れたとき、痛みは軽くなるのです。イエス様が十字架で示されたことは、痛みを共に負うということです。心・体にみな痛みを持っています。それを共に負い合う教会の交わりでありたいと願います。
<音声礼拝説教は「神様の色鉛筆」でどうぞ>