ローマ 11:12 彼らの罪が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのであれば、まして彼らが皆救いにあずかるとすれば、どんなにかすばらしいことでしょう。
「失敗は成功のもと」という言葉があります。誰もが失敗を恐れています。できるなら成功だけの人生が一番です。しかし、失敗を失敗と受け取らない生き方もあります。それは失敗があったあら成功したという考え方です。実は「成功」というのはたくさんの「失敗」の上に成り立っています。それがわかれば、失敗は成功のもとにつながっていくのです。また失敗しても落ち込まないで済むのです。
パウロはユダヤ人の「つまずき」のことを「失敗」と表現しています。しかしそれでユダヤ人に救いがなくなったわけではありません。むしろその「失敗」が、異邦人に救いをもたらしたというのです。神様の御心によって異邦人に救いがもたらせたのは、「失敗」が益とされたからだと言っています。ユダヤ人たちがイエス様につまずいたことによって、救いは全世界にそしてユダヤ人以外に広がって行ったのです。一つのことが別の所では全く違う意味をもつものです。ユダヤ人の失敗も異邦人の救いとなったとパウロは言うのです。
ある本の中で面白い表現を見つけました。「陸上競技の中で失敗して優勝するものがある。高跳び、棒高跳びなど。第1位の人は新記録をつくるために挑戦し、失敗して優勝する」と。はじめは何のことを言っているのか疑問でした。よく考えてみると、最高の記録というのはいつも目標にされており、失敗をかさねてそれが飛べるようになり新記録となる。だからこの失敗が次につながるのだと。失敗がなければ新しい記録の更新もないというのです。失敗したことをマイナスにうけとめず、次につなげるプラスと考える。失敗があったから目標が与えられたというのが事実なのだと。
パウロは、「彼らの失敗が異邦人の富となるのであれば、まして彼らが皆救いにあずかるとすれば、どんなにかすばらしいことでしょう」と言っています。ユダヤ人の失敗が異邦人の救いになればどんなに素晴らしいかといっています。これはユダヤ人の失敗を中傷しているのではありません。神様の御心によって異邦人に救いがもたらされたと言うのです。ユダヤ人が何を失敗し、どのような罪を犯したかをはっきり知ることで、神様の救いの業を確認したというのです。失敗はマイナスのことではなく、神様の御心によって与えられる恵みであるともいえます。