マタイ 18:22 イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。
小説の中にでてくる言葉です。ある人が「あなたの人生の行動規範はどういうものですか」と聞かれます。その人は「自分がやりたいことをやるのでなくて、やるべきことをやること」と答えます。自分が自分に与えたルールが、その人の行動規範となります。これはすべての人が守るルールとは違います。それはモラルです。行動規範とは、自分のやるべきことは何かを知ってそれをやることです。簡単なようで難しいものです。しかし、神様が私たちに求めておられるのは、あなたに与えられた信仰・命においてやるべきことをやることです。
イエス様は、ペトロから「兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか」と質問を受けます。イエス様は「七の七十倍までも赦しなさい」と答えられました。そのあと「仲間を赦さない家来のたとえ」を話されました。ある王様が、到底返済できない莫大な借金をもつ家来を赦すが、家来は自分に借りのある仲間にあうと、王への借金の五十万分の1にもかかわらず、彼を赦さず、捉えて牢屋にいれたというものです。王様は「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」といって家来を牢屋に入れるという話です。
ユダヤ教の話に次のようなものがあります。あるラビが、弟子たちに問題をだしました。「安息日に、金の入った財布が落ちているのを見つけた。おまえは、その財布を拾うか否か」。これが問題でした。もちろん、安息日の律法では、金を拾うことが禁じられています。だから、律法においては拾ってはいけないのです。指名された一人の弟子は、「もちろん、拾いません」と即答しました。あたりまえの答えです。ところがラビは、「おまえは馬鹿だ」と弟子を叱りました。言われて弟子はきょとんとしています。そこでもう一人の弟子が指名されました。前の弟子のことも考えながら、「はい、もちろん拾います」と答えました。すると「おまえは罪人だ、けしからん」と叱られました。三人目が指名されました。彼は困りました。どちらも答えられなかったからです。あなたならどう答えますか。この三人目の弟子は、静かに考えながらこう答えました。「わたしにはわかりません。きっとその場になれば、拾おうか、拾ってはならないのか、あれこれ迷うだろうと思います。しかし、わたしは、きっと正しい決断ができるだろうど信じています。神様が正しい決断をさせてくださると信じています」と答えました。 これは、深い話だなと思います。「これをせよ」「これはしてはならない」にとらわれないで、あたりまえに神様にまかせることができますか。
イエス様は、「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」と教えられました。赦された家来のやるべきことは、自分に借金のあるものも同じように赦してやることだと言われました。やるべきことを考えるとき、自分に与えられた人生とはいったいどんなものかを考える必要があります。生かされている今日、神様に支えられて何を「やるべき」か、を考えながらすごしましょう。
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