マルコ 6:43 パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった。
コンビニで大量のお弁当が捨てられるのを目撃しました。まだ食べられるものだと思いますが、会社のルールなのでしょう。娘のバイト先でも大量に残った食べ物を、バイトが持ち帰るのではなく廃棄処分となるとききました。いつもどうにかならないかと思います。食べ物を粗末にすると罰が当たると教えられてきました。捨てられる弁当を見るたびに、食物は神様が与えて下さる恵みなのにと思うのです。
イエス様の奇跡に、有名な五千人の給食があります。イエス様は大勢の群衆をみて憐れみ、み言葉を語っておられました。時間もたち食事の時間になりましたが、その用意がありませんでした。そこでイエス様は、「五つのパンと二匹の魚で大勢の群衆に食べ物を与えなさい」と弟子たちに命令されたのです。その結果、五千人以上の人が食べて満腹し、残りは十二の籠にいっぱい残ったというのです。
桜の花が咲くと、岸千年先生を思い出します。先生には大変お世話になりました。私が神学校に入学した時はすでに90歳に近かったと思いますが、まだ教壇に立っておられました。孫のような学生に「キリスト教概論」を優しく教えてくださったのです。先生は本当に、かわいがってくださいました。「あせってはいけないよ。かならずいい牧師なになるから」と励ましてくださいました。「いまはくよくよしてもいいけど、牧師になったらくよくよしないことだよ」とか、「いまのままで悩みなさい。それがあとからの糧になるから」と。先生とは約束がありまして、ある授業の単位レポート20枚の課題がだされました。しかし、10枚しか書けませんでした。大胆にも「これは20枚の価値があるレポートです」と隅っこに書いて出しました。当然不可のところですが、岸先生は単位をくださったのです。結婚式のスピーチで「あのレポートは10枚分の価値もなかったけれど、残りの枚数はこれから牧師となって素晴らしいレポートを書いてくださると信じております。天国にて残りを受け付けます」と。桜の季節に必ずこのスピーチを思い出します。残りものの価値を考えます。
イエス様が、五千人の群衆を五つのパンと二匹の魚で満腹されたとき残ったものがありました。しかしそれを人々はどうしたでしょうか。翌朝生ごみとして捨てたでしょうか。きっとイエス様が祝福された食物として持ちかえり、大切に食べたのでないかと思います。イエス様の手が触れ、祝福された食べ物だからです。そう考えるとすべての食べ物は神様が造られ、神様の手が触れています。無駄にしてないかと問われています。
<音声礼拝説教は「神様の色鉛筆」でどうぞ>
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