ルカ 10:36 だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか
あるとき、神学校の礼拝で学生が説教をすることになりました。はじめての説教だったこともあり、徹夜して準備し礼拝に参加しました。ところが説教壇に立ったとたん緊張し、何も話せなくなったのです。沈黙は5分位つづいたとき、ある神学校の教授が説教壇に立ち、代わって説教したそうです。その話をきいて「さすが神学校の先生ですね、よくできましたね」と思いました。ところが先生は「神学校の教授だから当然のことです。いつでも準備はできていますよ」と。
有名な「よきサマリア人のたとえ」です。イエス様が律法の専門家に「何をしたら永遠の生命をいただけるか」という問いかけからはじまる会話の中で言われた言葉です。隣人を愛すること、では「わたしの隣人とは誰ですか」という質問をしたのです。隣人がわかったら愛することもできますと言いたかったのでしょうが、イエス様は「だれが隣人になったか」と違う角度から問われたのです。その中で、サマリア人はいかなる状況においても、傷つき倒れている人の隣人になることができる準備がしてあったことがわかります。
「パウロ使徒言行の旅、トルコ・ギリシャ」を企画してキャンセルになったことがあります。 6月の旅行が決まったときはすでに5月になっていました。時間がなく準備ができないでいたのです。それから資料をあつめ、使徒言行録を読み始めました。トルコ・ギリシャの地図をみながら読んでいます。その距離は計り知れない大きさであることがわかりました。この宣教の大地にますます立ってみたいと準備する時間を与えられたのだと思ったのです。使徒言行録を読んでいると、「聖霊が行くことをゆるさなかった」「イエスの霊がそれをゆるさなかった」「そこで・・・へいった」という表現がでてきます。私たちは勝手に準備し計画を立てて行動してしまいます。しかしそれは神様の御心ではないということで聖霊に止められることもあります。そこではなくこっち、それではなくこれという導きもあるのでしょう。私たちはいま何を神様は求めておられるのか、祈りつつ見極めていかなければなりません。神様の御心は全てによいように働かれるのです。その働きを信じて歩んでいきたいと思います。
いつでも準備ができている。チームに人が欠けたときも、その人が帰ってくるまですぐに代わってできる体制。これが目標でもあります。そのためには、まず心の準備をしましょう。共に働いている仲間ですから、補い合える心を備えることが、この働きを託されているものの任務の一つです。
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