フィリピ 1:9~10 わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。
多くの人は失敗したときに「こんなはずじゃなかった」と言います。その背景には「自分は利口なのに」「なんでこんな自分が」と思うのです。はじめから「自分は失敗する人間だから」とおもっていたら、「こんなはずじゃなかった」とは思わないし、失敗しても立ち直るのが早いものです。作家の遠藤周作が「本当の大人というものは、自分のすること、為すこと、必ずしも正しくないことを知っている存在である」と言っています。
パウロは、フィリピの信徒のため「知る力」「見抜く力」を身につけるようにと祈っています。この箇所はとりなしの祈りの部分で、フィリピの人々に正しい教えを知ること、それに従って行うことを勧めています。神様の前に、自分は何者であるかを知り、自分を吟味して、見分ける力を与えられるようにと祈るのです。
数学者の教授が「この頃、数学教育で、なにより憂慮されることは、解答が誤りとわかると、すぐに全部を消してしまう生徒が増えたことだ」と指摘されていました。私たちは人生の中で誤ることは多々あります。また、わからなく迷うことも多々あります。大切なことは、どこで誤ったか、何に迷ったかを知ることです。誤りや迷いを全部消してしまっては、それを知ることはできないという意味でしょう。私たちの信仰生活でも同じだといえます。自分はどこで迷ったか、誤ったかをはっきり知らせてくれるのが「聖書(みことば)」です。自分の失敗を知れば知るほど、神様の愛がよくわかります。自分の愚かさを示されれば示されるほど十字架の愛がわかります。しかし、それを隠そうとしたとき。すでに神様から離れているのです。
神様の前には、私たちは正しいことを為しえないと知ること。それを自分の中に見抜くことで愛が深まるように思えます。いつも自分が正しいという立場では、相手を思いやることはできません。本当の大人、信仰者とは、神様の前に自分の愚かさを知り、重要なことを見分けられる人のことでしょう。
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