2コリント 5:9 ひたすら主に喜ばれる者でありたい。
「根拠のない自信をもちなさい」という教育論を聞きました。自信というのは根拠があってはじめて身に着くものです。また何回もの失敗を得て、自信につながっていくものです。しかし、その教育者は「自信に根拠なんて必要ない」というのです。できるか、できないかを考えているといつまでたってもできない。むしろ「こうありたい。何かわからないけれど自分はできると思う」これが大切なのだと。理想をかかげて歩くことができる自信を生んでいくと言うのです・
パウロは、コリントの信徒たちに信仰による生き方を教えます。この地上で生きているかぎり様々な問題があります。しかし、信仰によって歩むときに心強いと告げます。「心強い」は、別訳では「確信している」となります。主に喜ばれるものでありたいという願いが、生き方の中心にあるのです。その信仰が彼を支えているのです。「こうありたい」と言えるパウロは、確信を得ています。その「こう」とは「主に喜ばれる」ということです。はっきりとした理想を描いているのです。
衣料品メーカーの社長さんの言葉に「いまできるとか、できないということでなく、自分としてこうありたい、これがしたいということを思い描かなければいけない」がありました。人は高い目標があるほど努力します。社長さんは「ですから、私の役割は、めざすべき理想の会社とか、理想の商売を描くことです」と言っていました。「できる」ではなく「ありたい」が大切だと思います。また、管理職は「ありたい」を示せるかどうかです。
パウロは「ひたすら主に喜ばれるものでありたい」と語りました。私たちの教会はどうでしょうか。教会の成長が「できるか、できないか」ばかり考えていないでしょうか。牧師は「できない」こと前提に考えていないでしょうか。しかし大切なことは「こうありたい」と思う教会の姿を示せるかどうかです。教会役員会・牧師が理想の教会を思い描けないならば、宣教の広がりも発展もありません。自分はどうでしょうか。こうありたいという理想を描けているでしょうか。牧師はそれを示すことができているか。パウロは「ひたすら主に喜ばれる」ことに重点を置いています。
<音声礼拝説教は「神様の色鉛筆」でどうぞ>
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