マルコ 4:21 隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない。
ある本に、ギリシャ時代のことが書かれてありました。フェイディアスという彫刻家がいました。かれはパルテノン神殿の彫刻を任された長でした。無事にその仕事を完成させアテネの会計官に請求書をだしました。すると、アテネの会計官は支払いを拒んだのです。「誰にも見えない彫刻の背中の部分まで彫って、請求してくるとはなにごとだ」というのです。するとフェイディアスは次のように答えたのです。「そんなことはない。神々が見ている」と。
今日はイエス様の有名なたとえの一つです。神様の目には、隠されているもので表にでてこないものはないということでしょう。灯は神様の言葉と同じ意味を持っていますので、み言葉はかならず表にでてくるというたとえでもあります。私たちの信仰生活で、神様の目から隠れることもできないし、隠すことのできないのがあります。それはみ言葉です。このみ言葉に照らされながら私たちは生きています。そして、このみ言葉こそが我が足の灯です。だからこそ隠れることも、隠されることもありません。
「毎日、忙しいですね」「牧師室でみかけることが少なくなりましたね」「きょうはどこですか」。最近、信徒のみなさんからよく聞かれます。牧師としてはいけないことですが、毎日どうしてこんなに行事があるのだろうと考えてしまいます。そう考えながらテレビをみていると、一人の女性が映りました。テレビのレポーターが彼女に、「どうしてそんなに毎日精力的に働いているのですか?ゆとりの時間はないですか?」という質問をしていたのです。彼女はレバノン出身の女性でした。その口から出た言葉は、「明日という日は確実に来る保証はどこにもありません。今日できることを今日やっているだけです」というものでした。明日は確実に来るということは誰にも保証できないし、わからないというのです。その言葉に、わずか10歳で国の内戦にまきこまれ、愛する人々を天に送らねばならなかった彼女の背景が見えました。「明日が確実にくるわけではない」が重く聞こえました。イエス様の生き方をとおして見えてくるのは、今日を大切にしなさいということです。
イエス様は「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない。」と教えられました。私たちが奉仕をするときの心構えとは何でしょうか。結果を出すこと、成果をあげること。もちろんそうです。しかし一番大切なことは「神様がみてよしとされる」ことを自分に求めることです。私たちが託されている働きは、神様から任せられた働きであることを考えながら今週もすごしましょう。神様は見ておられる。そして私たちの中に働くみ言葉は隠されたままにはおかれないのです。