ヨハネ 16:24 願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる
「願う」とは何でしょうか。子どもたちはいつも「あれ買ってくれ、これ買ってくれ」といいます。願いとはそのようなことでしょうか。どうも違うような気がします。それはおねだりというもので願いではないのです。それでは、願いとおねだりの違いは何でしょうか。それぞれに言換えてみればわかるかもしれません。おねだりは「わがまま」であり、願いは「祈り」ではないかなと思うのです。
イエス様の「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」との言葉で、弟子たちはまた愚かな論争を始めます。しかし、私たちもそこにいたら、もっと愚かな論争をしていたかもしれません。十字架と復活の出来事を経験してはじめてわかることがあります。復活の出来事の中での喜びで満たされること。それを願いなさいといわれています。
願い事といえば七夕です。ある時、駅ビルの笹に願い事を書いてみることにしました。ところが、何も思いつきません。いな何が願いかなとふと立ち止まって考えてしまいました。祈りたいことはたくさんありますが、願いごとはどうかな、と思ったのです。保育所に通っている娘は次のように書いてありました。「嵐に会いたいです」。面白かったのは次のものです。「ソロバンに行く気になれますように」。ソロバンに行きたいではなく、行く気になれるようにという言葉に笑ってしまいました。お姉ちゃんたちから一緒に行こうと誘われているけれど、まだその気になれないのでしょう。駅ビルでは次女も書いていました。ふと何をかいているかのぞいてみますと、なんと悟りきったようなことを書いていました。「あるがままに、すごしたい」と。子供らしくないな、でもあるがままが一番だと納得してしまいました。しかし、よくみてみると、「天の川でおよぎたい」と書いてありました。何を願うかは、その人自身がでます。その人の今もでます。願いごとはその人にとって一番の関心事かもしれません。しかし、誰に願うかを知っていなければ、欲望にも祈りにも変化することだけは知っておきたいものです。
私たちは欲しいものを、あれこれと神様におねだりするのではありません。むしろ、願いとして祈っているのです。神様の御心がなりますようにとか、世界が平和になりますようにとか、御心ならば病気から解放させてくださいなどは、すべて祈りです。自分勝手な欲望にふりまわされずに、神様の御心にしたがって願うときに、本当の喜びが与えられるのです。
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