1ペトロ 5:7 思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。
人はその立場が変われば、やることも変わります。そしてもっと変わるのが責任だと言えます。上の立場になればなるほど、責任は重くなります。しかし、どうもその立場だけに惑わされている人が多いかもしれません。上に立つということは権威というものも与えられます。しかしその権威を振りかざすのではなく、むしろ権威ゆえに謙虚にならねばなりません。それがあって与えられた立場での責任が全うできると言えます。神様が見守っておられるということを忘れてはならないと思います。
ペトロは手紙の最後に長老たちに勧めをしています。かなり具体的に書かれてあります。長老職という権威について、それが誤解されていることに注意をしているようです。初代教会において長老の務めにかんするトラブルが稀ではなかったようです。ペトロの言葉の中に「権威を振り回してもいけません。むしろ、群れの模範となりなさい」と勧めています。権威を振り回すことが教会の交わりを壊していくと知っているのです。むしろ上に立つものは謙遜に生きていかねばならないと教えています。思い煩いを自分のところにずっと置いている生き方は、神様の前に謙遜な生き方ではありません。神様を認めていないからです。だからこそペトロはすべて委ねなさいと教えているのです。
牧師として説教壇に立つたびに、心の中にある子供の声が聞こえてきます。それはいつもこう語りかけてくるのです。「先生は自分の話を自分で聞いて面白いと思う?」。この言葉を忘れることはできません。まだ神学生だった時、教会学校の生徒に言われた言葉なのです。しかし、感謝して忘れることができない言葉なのです。自分が語ることを会衆になって聞いてみるとき、福音として聞けるかどうか。自分の話は自分にとって福音かと問うてみるのです。これは私の説教の原点です。自分で聞いていやになる話は、人が聞いたらもっといやになるはずです。それは説教だけの問題ではありません。親子の間、友人との間でもおこることです。娘にぐちぐちと怒っている自分が、もし反対だったらと思うとゾッとします。たぶん「もうわかったからやめて」というかもしれません。「自分を愛するように隣人を愛しなさい」とイエス様は言われます。隣人を自分と見ることができるか。それは大きな問いでもあります。
ペトロは「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい」と言っています。思い煩いとは神様の前に謙遜に生きていくことができないことです。人は謙虚になって自分を顧み、神様にすべてを委ねることが大切です。ペトロは、一切を委ねて謙遜に生きることができると言っています。なぜなら「神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです」と教えています。
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